天沢退二郎逝く/北川透が追悼詩論

ー「60年代詩」を先鋭に体現ー
                   北川透
天沢退二郎が亡くなった。彼の存在が象徴した「60年代詩」の意味を後づけることによって、悼む思いにかえたい。
1960年代の初頭に天沢さんの詩が登場しなければ、それに鈴木志郎康吉増剛造などの同世代の詩人の詩を加えてもいいが、いわゆる「戦後詩」は終わらなかった。
この「60年代詩」において起こったことは、詩を書く前に主題を確定し、現実認識や感受性の「てにをは」や、「私」という詩人の存在を前提とする、従来の詩観や方法を否定することだった。
それを自らの詩において、もっとも先鋭に体現し、また「暴走」した詩人が天沢さんだった。
この時期の作品は、特集「朝の河」「夜中から朝まで」「時間錯誤」などに収められているが、その2番目の詩集から、彼のシュールなそしてナンセンスな過激さがよく表れている作品「死刑執行官」の、冒頭の2行を次に引く。
<旗にうごめく子どもたちを裏がえす者は死刑
回転する銃身の希薄なソースを吐き戻す者は死刑>
 先に述べた天沢さんの詩観の特色を、背後で支えているものにフランスの現代思想、とりわけミッシェル・フーコーの書「言葉と物」があることは容易に想像できるが、現代詩の世界における、それは最も早い影響だった。
 そして、それよりももっと画期的だったのは、従来の伝記的な宮沢賢治の読み方を変えてしまった「宮沢賢治の彼方へ」だつた。彼方へとは何か。宮沢賢治の作品は、どんな読み方をしても完結しない。必ず新たな謎を生み出す。謎は謎を生み出し、読み方は未知をはらんで、彼方へ広がるしかない、ということだろう。
(毎日新聞朝刊2023.4.3ーこれは後続があるようだ)
大学入学して即立ち上げた同人誌に『棺』と名付けた。
天沢退二郎に驚いていたころだ。いかにも天沢の影響を感じさせるネーミングであった。
その詩はろくに分からなかったが、天沢と吉増剛造が詩の詩たる本物として心を占めていた。
当時は全く詩観が分からなかったが、北川透のこの解説で今なら良く分かる気がする。しかしこの二人の詩をたまに読むと、深夜宛もなくなくさまよった北大路通りや高野川川端通りの夜風の臭いをふと思い出すのだ。青春の懊悩とともに天沢の分からない詩は私の資産として残った。