先にも書いたが、ひとのコンプレックスやトラウマやルサンチマンは他人には予見できない。ひとの内面に澱のように沈殿しているものであるし、またそれらが感情を傷つけるにあたり、ボーダーラインはどのレベルにあるかは他人からは見ることができない。
そういう点で、わたしは気分を害したらそれだけの理由で謝るようにはしている。その意味で、このエントリーで仲正教授には「不快感」については謝罪もした。
(個人メールはどうしてもエラーで返ってくるから諦めた。多分「いい大人がメールも送れないのか」とバカにするだろうが、仕方あるめぇ)
さて、問題は名誉毀損であるが、法律は法律家に任せて、かってにしろと言うしかないのだが、ここではその指し示している意味ないしは思想とでもいうものを考えてみる。
それは思想的にどうか、ということで本来決着をつける範疇に属する問題を、世俗の権利や名誉の得失に矮小化することでしかないように思っているからだ。
考えても見給え、もともと守べき名誉もない者には、クソの役にもたたない法律ではないか。守るべきものがある「奢る者」にのみ国家(法)から下賜されたものである。そんな法律はクソ食らえである。
期せずしてたまたま読み始めた小谷野敦の『リアリズムの擁護』の冒頭「リアリズムの擁護 私小説・モデル小説」が、文学史上の名誉毀損問題を扱っていて参考になった。
もちろん、それがこの本の主題ではない。小谷野の論旨は、昭和戦後リアリズム=私小説の評価が不当に低く扱われてきたことを批判しているのだが、特にモデル小説が最近はすぐプライバシーや名誉毀損で提訴される傾向が強まり、モデル小説が成立しにくい危機的情況にあるという論があるが、そんなことはないと反証している。
小谷野の反証は、人事や社会を扱うもの書きには大変参考になるように思えたので長いが引用する。
モデル問題については、人は易々と古いことを忘れてしまうようで、近頃はすぐに柳美里と車谷長吉(ちょうきつ)を例にあげて、人権思想の発達でモデル小説は書きにくくなったなどと言うのだが、この二例のうち前者(*1)は、一般読者にはとうてい特定できない人物の、隠しているわけではない(隠し得ない)事実の摘示をプライバシーの侵害として訴えたもので、特異な例だし、判決は原告が障害者であることをもって過剰に防衛的態度をとったものと私は考えている。
車谷のものは、小説中とはいえ実名を挙げて事実ではない不名誉なことを書かれたという訴えで、和解しており、いずれも典型的なモデル小説問題の例として挙げるには不適当である。
川端構成の自殺の原因について書いた臼井吉見の『事故のてんまつ』は、遺族との交渉の末提訴され和解し、絶版としたものだが、その後、城山三郎が広田弘毅を描いた『落日燃ゆ』について、作中人物の遺族の訴えがあって裁判となり、死者の名誉は毀損の対象とならないという判決が出ているから、臼井が今戦えば判例によって勝つだろう。(*2)
福島次郎の『三島由紀夫 剣と寒梅』は、だから著作権侵害の名目での遺族の訴えになったのである。小説のモデル問題というのが最近なって出てきたかのように言うのも間違いで、昭和三十年前後もかなり問題になっていた。
『文藝』一九五六年七月号の「小説とモデル問題」という、舟橋聖一らの座談会を読むとよく分る。そこで私が仮につくったモデル小説、モデル問題の年表を掲げる。
(25件程の判例リストは省略する)
文芸評論家や新聞記者には、存外法律実務に詳しくない人がいて、車谷長吉が裁判に敗れた、などと書く誤りを犯している。
そもそも刑事と民事ではまったく違うものである。刑法に名誉毀損と昂然侮辱罪はあるが、これらが単独で適用されることはあまりない。
『噂の真相』が刑事の名誉毀損で告訴されたのは、常習的と認められたため検察庁が適用したからである。民事では不法行為としての訴えになるが、そもそも民事訴訟というのは誰でもその気になれば起こせるもので、とうてい刑事の起訴ほどの重みはない。
民事訴訟において重要なのは、むしろその裁判を新聞やテレビが報道したかどうかの方である。原告被告のどちらかが、有名人であれば、大きく報道されるが、そうでなければ報道しないから、勝っても負けても賠償金支払い以上のことはあまりない。
たとえばチャタレイ裁判のように、刑事で敗訴しても伊藤整は東工大教授になっており、輿論が味方につけば名誉さえ傷つかない。
現に週刊誌の記事などはしょっちゅう名誉毀損で訴えられている。だからといってジャーナリズムの危機などとは誰も言わないのであり、文学に限って危機などと言うのは、文学が世間から守ってもらえる価値あるものだという奢りがあるからである。
要するに、人事を活字にして口に糊している者は、作家であろうが雑誌記者、新聞記者であろうが、いつでも訴えられる危険性はあるということで、民事の裁判で敗訴したからといって悪事でも犯したかのように言うのは間違いなのである。
しかも今ではインターネットがあるから、一般人でも易々と訴えの対象になるし、名誉毀損的なブログなどは多いから、これからは訴訟は増えるだろう。
(*2)死者の名誉毀損裁判はわたしの記憶ではこれを含めて世界に数例しかない。2例は日本で、そのひとつは、京大俳句弾圧事件を扱った小堺昭三の小説『密告』(1979年)における西東三鬼スパイ説に対する遺族と鈴木六林男による名誉毀損訴訟。
遺族側勝訴。従ってこの小谷野敦の記述では誤解を招く。
小谷野の小気味よい本質を突いた見解である。
要するに、自分は世間から守ってもらえる尊大な人物だという奢りとも自惚れとでもいう自己認識があって成り立つのが名誉毀損の内実なのである。
(プライバシー侵害はそうではないが)
そして小谷野の次の卓見は、わたしがいままで小谷野に抱いていたイメージを払拭するものである。
モデル問題が、文学にとっての危機であるなどと井口時雄は書いているが(『危機と闘争』作品社、2004年)、仮に戦前は人権意識が希薄だったからモデル問題での訴訟はなかったとしても、内務省による検閲があって発禁があったし、不敬罪や軍人誣告罪もあった。
単に規制をかけてくる者が政府から個人に変わっただけであって、そんなこと言ったら古代以来、文学は常に危機だったことになってしまう。
要するに、個人が個人を規制しようという言ってみれば垂直方向だけでなく、水平方向からも規制される時代になったということであろう。
わたしは、個人と言っても、公的権力や権威を纏ったものが名誉毀損だとか言い張るのは問題だと思う。どだい何ももたない市井の民は、それらの者に物申そうとすれば、罵倒か揶揄しか術がないからである。
フーコー的な意味での権力者(政治家、企業家、学者、高級官僚など)は、せいぜい公的権力をもったマスメディアからの権利侵害に限定解釈すべきではないか。
あるいは、情報や言説の切り売りで口に糊しているプロだけが摘発の対象となるようにして、市井の個人同士は斡旋調停でいいのではないか。
無名の民に対して、権力者は安易に名誉毀損だ誣告だとか言って欲しくない。彼らのは有名税であって、言論の自由を萎縮させる方がよほど民主主義には弊害が多いはずだ。