橋下の「ルサンチマン能力主義」導入、さて5年後がみものです。

大阪市、能力給の導入を検討
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さて、5年後くらいがみものですね。
職場がどのように変わっているか?

結果が出たころは橋下本人は、これを成果としてひっさげて国政にでも
出てのし上がっているでしょう。

野望の踏み台のひとつでしかない、というのは言い過ぎか?

わが社もはるか20年前、賞与だけは査定を導入し、上下平均50万円に15万円ぐらいの差を設けた。
このとき、できたての労組が猛反発しわたしと数人が矢面にたった。

当時80年代中半頃は自由化規制撤廃が当然の流れで、能力主義金科玉条のごとく企業で採用された。ただし、ほとんどが営業部門など直接収益事業部門に限られた。

その後事務部門にもその波は襲い導入されたが、有名な富士通の産業史に残る失敗をはじめにしてほとんどが撤収した。

事務部門の能力査定評価は、職場の連携を阻み、チームワークに不全を起こし現場から怨嗟の声が多数を占めた。
経営陣も意見は割れた。

現在わが社は営業部門の能力査定はだれも疑わず異論もでていない。
それには、全員が納得する査定評価方式を用いている。この過程では労組とも何年にもわたって協議改善を呼びかけ、納得を図ってきたからだ。

事務部門は絶対評価として、点数評価はつけない。

点数評価は、極めて緻密だ。
査定尺度を7つぐらいもっており、本人の活動評価が立体的に浮き上がるようにできいる。
数字さえだしていれば高得点という評価はしない。チームでの貢献と定性評価は極端な場合最高得点をゼロにしてしまうところまで幅を設けている。

そしてなにより大事なのは、長年にわたり点数評価にさらされるストレス度を考慮して、点数部門の経験年数の多い順に定年延長雇用を配慮する。

従って、事務部門の局長以上は営業部門からしかなれない。事務部門のプロパーは最高位が局次長までである。

もちろん例外もあるが。
財務のプロパーだけである。これは経営数字の運営に責任をもっているという意味で、金融筋の外部評価にさらされるからだ。

さて市役所という閉ざされた職域で、皆が納得し、長期にわたって職場の協同関係をより強固にする査定方式が採用されるのかどうか、みものである。

おそらく橋下のことだから、労組の言い分などこれっぽっちも聞かず、強引に押し付けるだけだろう。
民意の印籠を出せば、橋下黄門は何でもしていいと思っている人だから。

わたしはモチベーションを維持するのには必要な面もあると思っているが、橋下の導入には反対である。
橋下の導入には職員への愛情が感じられないからだ。出来の悪いやつや、怠けているいるやつは炙り出してクビにもっていってやるからな、という市民のルサンチマン代理人になっているからだ。

能力評価とはあくまで、個々の労働者のモチベーションを引き出し、ひとりひとりが自己研鑽へ向う仕掛けであって、これによって組織としては落ちこぼれを出しては本末転倒だからだ。

評価のいつも低い人間が必ずでる仕掛けを承知し、しかし年々組織全体の底上げがされていることが肝腎なのだ。評価の低い人間を出して首を切るのが目的化されてはならないのだ。
これは一種の劇薬であって、管理者側が目的と使用方法をまちがえてはならない。

私たちの時代は、協力し、困っている同僚がいれば助け、チームがひとつタスクを達成することは当たり前。そこに評価点をつける愚は入り込まなかった。
東北地震の被災者の互助がことさらマスコミで素晴らしいことだと取り上げられる今、若い世代は当然のように能力あるものは優遇されて当然、強いものはより強くて当然、金持ちは貧乏人を虐げて当然、金持ちは税制上優遇されて当然、弱いモノは踏み台にして当然、浮浪者は襲ってゴミとして燃やして当然、こんなふうな若者が増えたから、おそらく橋下のルサンチマン能力評価を職員のなかからも支持する若者が出てきて進むだろう。

支持はしないが、かといって労組の硬直した疑似連帯と、物取り主義に堕落した運動ばかりのダラ幹たちには擁護する義理はない。

わたしはこんな時代に現役を卒業していてよかったと思うだけである。
5年後職員の人手不足や職場荒廃と職員のアトム化で、住民サービスが悪化しないように望むだけである。

すでに市は福祉関係の職員の非正規雇用が40%近くなっており、経験が唯一の対人処理のスキルの部門がそんな状態であり、子ども虐待、ドメスティクバイオレンス、老人の孤独死などの対応に手が回るのだろうか?

やがて私の住む市も都のただの一区になり、税収の多くを南部の税収の低い区へ、あるいは西成や生野の税収のない区へ持って行かれるのだから、少しは文句言う権利があるだろう。(苦笑)