大阪国歌起立条例批判派も橋下反論もピンボケ

これはMIXIの私のトピックに、反対論と共感ないまぜの意見を書いてきた30才台の若者への反論として書きなぐったものをリメイクしたものである。
従って解りにくいところがあるかもしれないことをお断りしておきます。

若者は比較的よく勉強していて、私の「自由」に関する認識を問いただすという意図だったようだ。
彼は、だんじり回しを例えて考えてみると、橋下のこの条例をやはり支持してしまうのだと。
だんじりをみんなで力を合わせて一糸乱れぬ行動できれいに回す方が、てんでんばらばらに動いて失敗することを比較すると、どうしてもバラバラの自由勝手な行為は支持しがたい、というところから橋下支持だというのである。


こんな比喩を使うこと自体がハシズム手法だから、話にならないので無視しておこうと思ったが、昨日の橋下のツイッターでは、朝日に載ったらしい元守山市長?(新聞読まないので失礼)への反批判を見て、どうも橋下自身が批判派の最も低レベルの旧左翼を想定しているようだから、少しキチット私なりの観点から批判しておこうと思い若者に反論した。


自由が問題になるのは、政治権力(国家権力)からの自由であり、認め合う自由か譲り合う自由かなどというレベルは問題ではない。そんなことは好きにすればいい。
つまり、政治過程と社会過程の「自由」の混乱が君には見受けられる。

政治過程での問題は、近年ややもするとサンデルなどもそうだが、平面的な形式論で正義とは何かなんてやってるが、正解などでるはずがない。
自由もそうで、政治過程での自由は、その時の政治権力とそれによって外化されている国民との関係で規定されるわけで、一般的に自由など語っても意味がない。
つまり自由や正義などは文脈依存的にしか語れないし、正義なのか不正義なのか、自由の在る無しなどは、その時の大衆の共同幻想性や社会的関係性のうちにしか語りえないのです。

つまりここでの起立拒否が正義か不正義か、その行為を認めるのが自由か非違行為として法的に摘発することが自由侵害にならないのかは、日本の特殊な戦争行為と責任論という歴史的文脈に依存している、といえる。

ことはそれほど深く複雑である。
しかし統治する方は、そんなこといっていると秩序が収まらない。そこで外形的行為を基準に機械的に判断する手法を成り立たせた。それが刑法や条例である。

君のいう援交の自由がいいかどうかなんてレベルは好きにしたら、ということでしかないのだよ、ここでは。
それは倫理の問題。

起立条例が問題なのは、政治権力が個人の内面まで規制し、その規制に従わない場合は解雇によって生活を取り上げるという、個人を社会的に抹殺すこと。

西欧近代国家が歴史上優れているのは、外形的振る舞いだけを規制することに徹したこと。
これに対して、ソ連(ロシア)や中国や北朝鮮や戦前の日本などは、東ローマ帝国神政政治の伝統をひいて個人の内面に踏み込み、頭の中や夢の中の「悪い考えと善い考え」を政治権力が決定し支配する。
中国をみればわかるように、それを徐々に薄めてきたのが近代化と呼ばれる国家運動である。失敗して潰れたのがソ連であり北朝鮮である。

従って近代刑法は、考えているだけでは逮捕しない、また予防拘束には慎重であるべきだと規定している。
歴史的に大衆はどちらをより生きやすく心地よい統治原理として受け入れたか?
説明までもないだろう。

今回の国歌起立条例の問題は、行政権力が国家権力の思想信条の内面支配を上塗りし、「悪い考えと善い考え」に色分けして個人の内面を支配するものであるから、近代が獲得した最も心地よい原理を無効にしたことである。

座したままでいることは、式典を妨げたり誰かに物理的に迷惑をかけることは一切ない。
近代刑法は、破廉恥犯など以外には物理的に違法行為をしない限り犯罪の要件を構成しないことになっている。国家権力の自制によって、逆に国家権力の公共性と公平性を担保しているのである。

従って、東京都教員の処分への最高裁判決は、法が厳密にはこの近代法原則を逸脱している認識があるため、座っている分には、戒告どまりにして免職は過剰処分であると都教委の処分を取り消しているのある。

ルールは守れよ、いう通俗的感情に訴える側はことの重大性が理解できていない。
また、批判派は、独裁だとか、内面の思想を侵犯しているといっても根拠を明示しないため、公務員は義務だとか無制限な自由はないとか、これまた俗論に敗れるのである。

この問題は、近代国家原理を根付かせる先人の努力を、北朝鮮や中国や旧ソ連(ロシア)のような神政国家に移行させようとする事件であって、それは近代の民主主義原理を運用できない国民能力の欠落を証明してしまった。

教育現場については、経験的にも言えるのは、やっと社会や思想に目覚め始める時期に、いろいろの思想的表現にぶつかることは、物事をさまざまに考える端緒を授かる。それが教育現場では大事であって、考える契機を与えてくれない教育現場はつまらないらっきょのような人間ばかりを量産するだろう。現にそうなってきた。

橋下のもう一つの問題は、教師は賃金労働者ではなく聖職だと規定すること。身分制の封建社会か?賃金をもらっていない教師がいるのか?
そうした現実を無視して、聖職などのキーワードを頻発し、これは特定のイデオロギーを含意しているにもかかわらず、覆い隠したままにする詐術となっている。
社会科学的訓練のできていないバカには簡単にスルーする高等テク。

ここまではわたしのような市井のおやじにも問題の所在が解る。
問題は、こうした人類が獲得した最高の生きやすい諸原理を捨てていこうとする日本のリーダー層の動きである。

オウムの殺人(ポア)が相手を幸福にする、という近代の殺人は最高刑という刑法原理を否定した。
これに簡単に若者は魅せられた。

原発事故は、共同体の成員が意思決定に参加し、多数決で決し、少数意見を尊重し排除しないという民主主義の原理を無効にした。
すなわち数百万年先の子々孫々は意思決定に参加できないにもかかわらず、被曝の被害だけを否応なしに受ける。
近代民主主義の共同体成員の範囲を無効化してしまった。

現在は、人類が獲得したはずの最高の政治的統治原理を意図的に捨て去ろうとしている。
そして、兵器ではない原発が、近代の最高の政治制度=民主主義を無効にし、将来の子孫にとっては民主主義的手続きが災悪として機能してしまっている。

この危機を超える新しい政治原理と制度の回答を残念ながらもたない。
せめて、近代が獲得した原理を再検討し、いいものは後退させない、戦争やファシストと血で血を洗う戦いの記憶が薄れているがゆえに、こうした橋下のような若者が増えているのだろう。
しかしハシズム信奉の若者が何と言おうと、戦後日本人が獲得した民主主義の理念を無効化する運動は認めない、というスタンスを維持するだけである。

批評性とはそういうことではないのか。