子安宣邦先生の講義。(2017.4.22)
明治150年の年に維新論の見直し。
津田左右吉「明治憲法の成立まで」を手掛かりに。
(A)
1.津田は、薩長のクーデターとみている。徳川の政権返上後も、慶喜中心の公儀政体派が多かった。ために西郷らは謀略的工作をもって幕府側を戦争に導いた。
薩長両藩の武力的政治集団によるクーデターであった。
2.「王政復古」という政治標語は、神話的理念であるから実体がない。したがって政治的現実化は、政権奪取者の恣意にまかせられた。
3.「王政復古」が、政権奪取者の手に握られてとき、それは極めて危険な政治の念となった。歴史家はこれを説くことはなかった。
(B)
聖徳記念館の明治維新絵画80点。
1.大正15(1916)から昭和11(1936)の間に書かれたもの。
明治国家・天皇の顕彰記念。
天皇新政による近代国家の形成という日本近代史。
2.昭和18年戦中最後の教科書、学校が崩壊していたため幻の教科書となる。「王政復古」=「天皇新政」的史観が、昭和に形成されたことを証明している。
(C)
戦後の不完全な近代革命観
昭和43年(1968)は明治100年。大学紛争に掻き消された。
大学紛争は、日本近代の政治・社会制度的遺物としてある大学の学問的制度的体系を解体的批判をするものであった。学生たちの解体的批判はこの日本近代そのものの制度的構成物としての大学という学問的装置に向けられていった。それは日本では希な原理主義的性格をもった闘争であった。だがその闘争が内部抗争化して、暴力化し、そして自滅するかのごとく制圧されていった後に、われわれは大学に何を見出すことになったのか。合理的経営体であることを要求する大学改革という上から吹きつける嵐に、大学はもうそれに抵抗する力を内部に全くもっていなかった。
あれから50年、大学人の明治維新関係の書籍が書店を賑わしている。50年前と明治維新の関心は様相を変えたが、その書籍にみられる言質も様相は様変わりしている。
(ここで講師は、丸山眞男にふれて、全共闘学生が研究室を荒らしたというエピソードを話し、あんなもの物理的にぶっ壊さなければだめですよ、丸山は解っていない、自分の部屋が壊されたとおもっている、そうではなくて、前近代的遺物である大学を問題にしているのに。という的を射た解説をされた)
(D)
三谷博(東大・近現代史)『維新史再考』の維新観批判。
慶應3年の薩長同盟による軍事クーデターと位置づけ新国家創設の積極的意味付けをする。
三谷は、三つのキーワードを使って積極的評価。
①公議…公議興論だけでなく「人材の登用や政権のへの直接参加を求める主張をも」この語に含めて考える。
②集権・集権化…「近代の日本は二人の君主と二百数十の小国家群からなる双頭・連邦国家の政治体制をもっていたが、これを天皇のもとに単一の国家に変える。これが集権化である」。
③脱身分…「政府の構成員は生まれを問わずに採用し、皇族・大名・公家四百家あまり以外は、被差別民を含め、平等な権利をもつ身分に変える。これが脱身分化である」と述べている。
(子安の批判)
①このキーワード設定をみると、近代国家創出を称えるごとく、三谷によって後追い的に構成された概念だと言わざるをえない。
②彼は、「天皇親政」的近代国家日本をを導いた「王政復古」の理念とその運動に、近代的統一国家日本における君主的主権の確立をしか見ようとしない。
「近世の日本は二人の君主」をもっていたとする三谷は、「そもそも世界一般に君主はただ一人なのが普通の姿なのであって、六百年そこから逸脱していた日本は、西洋による侵略に深刻な危機を感じた時、政権の一元化を緊急課題とした。君主の一身に国内のにある大小さまざまの領主を超越する権力を集中するという運動が生まれ、それが結果的に十七世紀の西洋が生み出した「主権」の原理に適合する政治体制を創りだしたのである」という。
批判……十九世紀的世界史の西欧的「近代」にアジアの再構成的包摂が進められる対応事例として読むものだ。
三谷は、西洋的「近代」の日本における達成に、「近代」概念を疑わない。この「近代」を疑うことのない歴史家たちによって、いま明治維新は蝶々と語られている。
(わたしの批判)
三谷は、君主が二人いたとうとんでもないことを「史実」とし、それを前提にする。天皇は政治権力を持つことはほんの一時期を除きほとんどない、武家政治以降これを君主とは言わない。
三谷はあくまで西洋的「近代」を基準に、明治維新を無理やり適合的な近代革命に押し込める。明治の「脱身分」など史実に反し噴飯ものである。西欧的意匠替えでしかない。
子安の批判は、日本「近代」のもつ影=アジア植民地化と蔑視を視野にもてないという意味で、まことに妥当な批判である。
(E)
津田の維新観ー王政復古は倒幕の具
徳川幕府側は現実の情勢に対応した国策を定め、すでに政治の改革を進めていた。それに対して倒幕派は、「現実を無視した空虚な憶断と一種の狂気によってこの国策を破壊せんとするものであった」。それゆえ維新は反動的性格を帯びたものになった。
「それは封建の上に立ち、そしてそれを悪用し、戦国割拠の状態を再現することによって日本の国家を分裂に導き、また武士の制度の変態的現象ともいうべき暴徒化した志士や浪人の徒が日本の政治を撹乱し日本の社会を無秩序にすることによって、究極には徳川氏の幕府の倒壊を誘致し、もしくは二、三の諸侯の力によってそれを急速に実現しようとしたことである。」
明治維新に向けての倒幕派の運動を封建反動とする津田の維新観は昭和23年に『心』に公表されたもの。その他維新に関する諸論考は昭和36年の死を前にした最晩年に集中している。
明治維新を日本近代の正統的始まりとする維新観に支配されてきた20世紀日本にあって、津田は己の維新観すなわちこれを封建反動的なクーデターとする見方を公にするには晩年まで待たねばならなかった。
「明治100年」のときは誰も津田の維新論を取り上げることはなかった。
「王政復古」とは、私党的政権奪取が借りた名義であり、討幕派の掲げる偽りの錦の御旗だということになるといえる。
この津田の批判は、天皇親政国家と政府の関係についての根底的批判を可能にする。
イギリスの王室と政府のように、王室は政治に直接関与せられなかったために、かえって精神的に民衆と接触し民衆とひとつになっていられた。宮廷と幕府とが全く区別せられていた徳川時代の状態は、それを示すものである。
明治維新は、「天皇と政府とを混同し、そうしてかえって皇室と民衆とを隔離させるに至った」と津田は言う。
津田は、「王政復古」と「天皇親政」の名によってする皇室と政府との混同がもたらす明治政府の失政を激しく非難。
「彼等(オオクボやイワクラ)の思想は、皇室と政府とを混同し、政治の責を天皇に帰することにって、みずから免れ、結果から見れば畢竟皇室を傷つけるものだったからである。そうしてそこに、いわゆる王政復古または維新が、その実少なくとも半ばは、皇室をも国民をも欺瞞する彼らの辞柄であり、かかる欺瞞の態度を彼らが明治時代までもちつづけてきた証左がみえる。」
「王政復古クーデターが、「天皇親政」を騙った明治政府による専制的国家を可能にしたのだと、津田は批判する。この過去にない画期的根底的批判である。
子安は、昭和の天皇制ファシズムによる軍事的国家の成立を「王政復古」維新と無縁なものではないと考える。津田の維新論をてががりに「明治150年」を読み直していく。(了)