福井紳一著『羽田の記憶』読後感

福井紳一さんの『羽田の記憶』(「かつて10.8羽田闘争があった」)を読んだ。この本が出たことは知っていたが何故か触手が動かずにいた。大道寺将司をこの中で取り上げているというので、中古本を取り寄せた。
一言でいい文章だと思った。福井さんの論理的だろうなという先入観とは少し違っていて、こういうエッセイになるとしなやかで詩的な透明感を感じる。
大道寺に関しては全体のごくわずかしか取り上げていない点に少し不満だが、水底に手を深く沈めて、核心を救い上げたようなものだ。選んだ句の彼の名句中の名句でいい眼をされている。それ以上に、いいなと思ったのは、山崎博昭を直接ほとんど言及していない点だ。福井さんが見つめている人達は、時代を超えて名もなき人々の死であり、歴史の軋みのなかで生を中断させられざるをえなかった人々である。それは民族、国家を超えて視野に収めようとする。

私ごとで恐縮だが、父の死を契機に、70年めにして、初めて父の弟がラバウルで戦死していることを突き止めた。私はそれをやや長編の追想として造形した。その時、身内だからというだけで書いたのではない、と記した。
わたしの叔父は学卒の兄弟たちのなかで、ひとり尋常高等小学校卒で、職工についていた。学徒出陣の場合は、国家の壮大な儀礼をもっておくりだしたが(動員自体理不尽だとしても)、叔父など将校になれない兵隊は、牛馬のごとく駆られて行先さえ伝えられないまま南方に送られた。
関東大震災の日本国民であった被虐殺朝鮮人の追悼碑と国家的行事はない、東京空襲の民間人10万人の犠牲者も国家的追悼がいまだ混迷したままだ。
すなわち、福井さんはわたしが怒ってきた問題を、より専門的知識を武器に、鮮やかに、静かに、山崎博昭の死の意味へつなげている。
とても共感した。

とはいえ、わたしは山崎の死の意味を深く受け止めながら、素直になれていない。この年になってもお前はまだ何をこだわっているのだ、と自分の声が聞こえてくるが仕方ない。
凶状持ちの元活動家の友人が、なけなしの金を数万円カンパした。
わたしはたしなめた、感傷にすぎないのではないかと。友人は曖昧な笑みを浮かべて黙っていた。
党派に入ってはいなかったが、友人が多くいたのであろう。

大阪で初めて山本義隆が講演をするというのででかけたが、受け付けはカンパ要請一色だった。大手前高校の関係者が詰めていた。
不忘の碑を建立するのはいい、しかし同時にやらなければならないことはあるのではないか。そういう湧き上がる自分のなかの声を押し殺して山本を聴いた。たいした話ではなかった。その間も何かイラついた。
何かの署名を隣の席の同世代と思しき男が要請してきた、サインするのは当然だと言わんばかりに。その正義の押し付けのような態度にまだ腹が立って無視した。すると男は、いきなり俺は元東大全共闘でやっていた者だ、この問題は大事な問題で、これに賛同できなければどういう方法があるか述べてみよと居丈高に言ってくる。とうとうわたしはキレてウルセーと一喝して席をたった。

わたしにすれば、山崎の死をわれわれ同時代人が追悼する場合、羽田闘争を勝利だと絶対化する前に、その後の歩んだその党派の惨憺たる路行を完全に総括することが必要ではないのか。革共同の陰惨な内ゲバは、連合赤軍の同志リンチ事件と質的には同根だろう。
山崎を追悼するひとたちの口から、わたしは総括めいた話を聞いたことがない。死の美化だけが流され、革共同解体への勇気ある闘いを知らない。いや知る限りでは、もと反戦自衛官から中核派にいった小西誠くらいだけではないのか。
小西は脱退したが、精力的に革共同中核派の批判活動を展開している。

今の中核派学生が、暴力を肯定するのか?と問われて、ためらうこともなく、肯定しますと答える。
70年全共闘派なら、
あなたの暴力はMachatの意味でしょう、われわれの言う暴力はGevaltですよ、その意味でなら認めるのではなく避けられない必然です、と答えただろう。
そして、暴力を肯定するから中核派だけが信用できたために加入したと、シラッといいのける女子学生は、戦後の革命運動をどれほど理解しているのか?

京大で、ある日突如校舎がバリケード封鎖された。
職員と解除をめぐる論議論議になっていない。法治国家なのだから法を無視するなという職員の解除要請に、ほとんど反論できていない。
そしてこれが暴力の正しい行使ですと、女子学生は誇らしげに述べる。
待って欲しい、いきなりバリケードは革命の作法にいつからなったのだ?クラスで問題をアジり、討論にかけ、投票でスト権を確立する、そういう民主的手続きを踏まずに、いきなりバリケード封鎖は、知を無視した右翼と同類の振る舞いではないのか。だいたい非日常を持ち込み、日常の欺瞞を露呈させるには、矛盾がなにであるかを大学内で共同観念として同定しておかなければ、革命もクソもないのだ。すぐバリケードなどは内部の「仲間のはずの友人」にあっという間に破られるのだ。

山崎博昭を語るときは、彼の所属した党派の問題をセットで語らなければ、"赤色靖国神社"になってしまうことを訴えておきたい。
あの分厚い本に寄稿した執筆者たちは、大道寺将司が生涯をかけて暴力闘争とテロを慟哭をもって総括し続けたことを知っているのか。わたしは、大道寺の勇気にシンクロし、彼もわたしの句文集をICUのなかで、この世の最後の本として読み切って逝った。
山崎博昭は、一瞬の反権力のなかに「美しく」死ねた、いや生き残った者が死なせた。
大道寺は苦悶と謝罪と慟哭のなかに、七転八倒して死んだ。
  

―大道寺への追悼二句―
 風死んで狼煙の立つ鬨の声      至高
 地を踏まず娑婆に帰したりみちおしえ 至高

       註 みちおしえ、昆虫の斑猫のこと、夏の季語

大道寺の場合、支援者がテロ批判と、本人の闘争への自己批判を徹底的に要求した苦しい道程があったことを忘れるべきではない。そのうえでの暖かい支援なのである。
彼は勇気をもって、自己批判し、「日本赤軍」のテロによる超法規的脱獄の誘いを決然と拒否したことを忘れるべきではない。

(Facebookより転載)