ああ、中川智正死刑執行の日に届いた中川の「希望」

オウム真理教麻原彰晃以下幹部7人が一斉に絞首刑が執行された日。
期せずして、中川智正と二人の俳誌「シャムセッション」を発行している江里昭彦氏(俳人・京大俳句会最後の編集長・上野千鶴子友人)より、同人誌と礼状が届く。
ジャムセッション」は、江里氏の個人誌であるが、中川が京都府医大時代の「教え子」であったため、未決時代に支援をしていたなかで発行。
中川が俳句をやりたいので歳時記を差し入れして欲しいということだった。
医大時代の中川は、学園祭の委員長をしたり、身障者のサポート活動などをしていた真面目な優しい好青年だったとのこと。
この誌には、わたしも招待作家として寄稿している。

中川が広島拘置所に移送されてから、江里氏は宇部在住のため何かとざわついていたらしい。礼状が遅くなったことを詫びていた。
何を送ったかというと、「大道寺将司最終通信」である。
中川も俳句を始め、何とか形を成してきた感じがしていたので、励みになるといいと思ったのだ。
江里氏の書中にて、精読し、付箋がいっぱいついたこと、中川が句集を上梓したがっていること、などを知る。
中川も広島で落ち着きを得て、精力的に書いている様子を伝えている。
7月末には「ジャムセッション」を発行できるだろうと予告されている。
中川の今日の執行は予期せぬものであっただろう。
江里氏の落胆がいかばかりのものか、予想もつかない。

中川は、俳句以外にも毎号かなりの分量の未決囚としての日常生活と教団のことを描き記していた。
テロリストの化学兵器の使用のたびに、米国の機関や科学者が訪れて意見を聴くような存在になっていた。
しかし、麻原彰晃については、氏とかさん付けは終生続けた。
教団の事実関係にはコメントしても、評価や判断はほとんど避けている。
大道寺のように、自己総括を徹底して、自己の罪と向き合う姿勢は表出されたものからはうかがえない。思想というものがもともと希薄な信者たちではあるが、何に自己救済の契機を求めたのか、それは他の信者も心底をさらして述懐したとは思われない。

中川はもう少し生かしておくべきだった。
俳句に向き合っていくうちに、自己の更新をせざるをえなくなる。そのとき、オウムという宗教に向かった心性とその後の過ちを素直に記す場面に遭遇しただろう。
法的に、外在的に決着をつけた。被害者の応報感情には応えた。しかし、90年代に日本は何が社会の根底で起こったのか。そのことはうやむやのまま終わった。
いのま日本人の、特にエリートたちの劣化と精神の荒廃は、どこかでオウム事件と通底しているように思えてならない。

今日は同時に、大道寺将司一周年追悼会の報告と冊子を太田昌国氏が送付してくれた。
多くの大道寺関連の小論がまとめられているが、暖かく、思想的に厳しい、肉親としての配慮の行き届いたものだ。
いずれ改めて紹介してみたい。