虹の彼方へ―大道寺将司追悼集会(2018,6,29)

大道寺将司は、自分の罪と獄中で向き合ってきた。
支援者たちに、死後の一切の追悼をして欲しくない旨の遺言をしていた。
しかし、彼の誠実な人柄を愛する人たちが、最後の別れをしたいと密やかに追悼の会を催した。
150名ものゆかりの人たちがつどったようだ。
以下は、追悼の会へ寄せたわたしの一文である。会場にて配布されたとのことである。

 この世の暗黒を撃ち続けた草莽 大道寺将司を偲ぶ  
とうとう大道寺将司の追悼文を書く機会を逸してしまった。
わが俳誌に奇妙な理由によって紙巾を与えられなかったことが直接の原因だが、同時に大道寺がテロルによって提起した問題をそれなりに総括はしているが、その論説以上に彼の一生を想うと、言葉にできない部分がでてきてしまい、逡巡してきたことが大きい。
大道寺が死刑囚となってより三〇年以上にわたり『キタコブシ』という支援交流誌を発行し続け、大道寺の従兄弟で接見人でもあった太田昌国氏の伝えてくれたところによれば、大道寺が数度の危篤に陥りながら、拙著句文集『俳句のアジール』を枕元から離さなかった、文字通り命を縮めても読み切って旅発ったとのことだった。
そして彼は、最後の号に、いい句集であると推薦の言葉を振り絞って記してくれた。
わたしは、思わず落涙した。
一度も会ったことも、直接口もきいたこともなく、俳誌上の交流だけだったが、お互いに言葉にせずともどこか心情が通じていたなという実感は今でも残っている。
あの怒濤の熱情の時代を経て、含羞とともに生きてきた者にしか解らない何かを紐帯として。
最後に大道寺をこころから友人だと思えた。

 太田氏は、『六曜』へ俳人としての大道寺の追悼文も寄稿してくれている。
初めて、北海道から上京してきたときの逸話から始まって、大道寺の折に触れて詠んだ俳句の回想を綴られていたが、しみじみとした愛情のこもったものであった。
ああ、太田氏は大道寺を愛していたのだなと改めて感慨深く思ったものだ。
 これを機会に、思うところがあって創刊編集長として立ち上げた『六曜』を去った。
かっこつけるわけではないが表現者としての、思想的矜持とでもいうものを取り戻してみようと考えた。
「たかが俳句、されど俳句」、などという言葉を聞くが、下句の「されど俳句」は、結局俳人が自己慰撫にしか言っていないのだ。表現形式としての俳句依存中毒はこれでお終いにしよう。大道寺にあってわたしにないもの、それを痛切に思うのだった。
大道寺の『最終獄中通信 大道寺将司』(河出書房新社)には、獄中にあっても必死に時々の政治社会への発言を刻んでいる。俳人ではなく表現者たらんとすれば、世界の総体的ヴィジョンを持たなければ作家ではない。また、自己の創作について、歴史的原理的に何であるかを論理的に説明できないなら、その作者は職人であっても作家ではない。
わたしが、大道寺の生涯にわたる全重量をかけた獄中日誌から受け取ったものは、「思想者」としての矜持とでもいうものであった。
 あるいは、村上一郎は『草莽とはなにか』で次のように記したのだった。
 「草莽は身分が低かろうと、貧しくあろうと、草賊のたぐいでもなければ、野伏せ、山伏せの類でもない。手足は労働の土にまみれようとも、心は天下の高士である。しかも、晴耕雨読ただこころを養うばかりでなく、ひとたび一世の動こうとする時に当っては、義侠の徒を組織して立ち、或いは百姓一揆を領導して、内乱を革命に転化せしめ得る力量の持主でなくてはならない。故に、草莽こそ、天知る地知る我知るのかくれた英雄であらねばならず、また文武両道のインテリゲンチャでなくてはならない。たとえば志を得ず、一生晴耕雨読に明け暮れるとも、なおこころ屈するところなく潔士としての生涯を終る決意こそ、草莽のものである。」
 この村上の文章に付け加えるものがあるとすれば、それは「たとえ獄中にあろうとも」であろう。なんど方法において過ちを犯そうが、過ちを自ら糺し、挫折ではなく蹉跌の後に志を持ち続ける限り、囚われ人であろうが草莽である。大道寺将司は、草莽として生涯をまっとうし、その限りで「英雄」と呼ぶに相応しいのではなかろうか。                合掌