内田樹氏天皇制転向論についての「おやおや、安易な道を行きますな」と感心するの巻。

人気物の思想家が、庶民が気づかないうちに天皇制に対して転向している場合がかなり多い。
いまのリベラル派と言われる「識者」「政治家」のほとんどはそのたぐいだと思っていてよい。
批判をすると自分にかえってくるので、触らぬ神にたたりなしで、スルーしているのだろう。
Facebookで、たまたま慶応講師で画家で批評家の内海信彦氏が辛辣な批判を加えていて、共感した。私が「奔4号」で、日本思想史の泰斗子安宣邦先生の宮内庁・平成天皇解釈改憲批判寄稿文に、補助線として解説文を書いたのだが、内田樹の統治二元論を明治維新以降の日本近代と太平洋戦争の責任を無化するものとして批判した。
ほとんど全共闘運動などしなかったくせに、いかにも体験者として熟知している口吻はお子様ランチかと思っていたが、私だけではなかったようだ。
しかし今のリベラルなど、ネトウヨがビジネスなら、日本的リベラルもビジネス、これでは日本は救われまい。
 
以下、内海信彦氏のコメント。
 
天皇主義者に思想転向した内田樹を、未だに持ち上げて稼業にしている人がいます。子どもの頃に、ミイラ取りがミイラになるという説話を読みませんでしたか? いくら稼業だからとはいえ、思想転向した内田樹に迎合して身を滅ぼすのはこれ以上はやめておくことです。
 内田樹は、今朝の東京新聞で、まるで過去の自民党がある種の国民政党だったかのように歴史を都合よく改ざんしています。自民党には党内にハト派からタカ派までがいて、派閥抗争で疑似政権交代を行っていたと言うのですから、これは60年安保世代から70年代安保世代からすれば、ただの無思想保守の言い分です。ナチは言っていたことは良かったが、やったことが良くなかったと言った麻生太郎と変わりません。
 「60年安保闘争岸信介内閣が国論に深い亀裂がもたらした後」、寛容と忍耐を掲げた池田勇人が左右を問わず全国民が受益者となる所得倍増政策をぶち上げ、佐藤栄作ベトナム戦争加担で国論が分裂した後、田中角栄が左右の対立を棚上げして全国民的規模の多幸感をもたらしたと言うのですから、内田には思想性の欠片も残っていません。
 転向者とは、斯くも無惨で醜悪な腐り方をするのです。内田樹は言います。「私の友人で過激派だった男」が就職できずに親のコネで田中角栄に会い「若者は革命をしようという気概があった方がいい」と言われ、コネ就職をして忽ち越山会青年部の熱烈な活動家になったと言うのです。内田は全共闘運動を間近で見ていたと言いますが、一体どんな思想性と主体性を構築したと言うのでしょう。虚構と虚言だらけの粉飾した内田樹の思想性が、自民党への無様な屈従で露わにされています。
 内田樹のかつての岳父は、自民党衆議院議員でありながら、戦前の日本共産党中央委員会の転向者だと言います。その叔父は戦前の農本ファシストから戦後の日本社会党政権の大臣だそうです。内田樹は、そうした政治的立場を超えた個人的信頼関係が、自民党を支えた55年体制の底流にあり、今の自民党の劣化は修羅場を見たことがない世襲政治家の質の低下にあると言います。
 「僕は60年代の終わりから70年代にかけて学生運動全共闘運動の渦中にいて、活動家たちを間近で見ていた」という内田樹も、とうとう堕ちるところまで堕ちて、昔の自民党語りをするようになったのは、内田樹天皇主義者として「異なる統治原理が併存しているシステムは、焦点が二つある楕円のようなもので、単一原理で統合された同心円的な統治形態よりも自由度が高く、共同体が生き延びる上では有効」だと言い切った思想転向に深層で通底しているのです。
2019年3月30日
 内田樹の「天皇主義者宣言」は、1933年6月10日の日本共産党最高幹部の佐野学と鍋山貞親が、公判中にもかかわらず、獄中で権力と結んで天皇制に屈服して、全体主義体制に積極的に加担することを宣言した「転向声明」、すなわち「共同被告同志に告ぐる書」と酷似しています。
 佐野学は「皇室を民族的統一の中心と感ずる社会的感情が勤労者大衆の胸底にある」「我々は大衆が本能的に示す民族意識に忠実であるを要する」と言っています。
 内田は「日本には天皇制がある以上、日本の場合は、それを所与の条件として勘定に入れなければならない。となると、どうすれば共和政と天皇制という二つの異なる統治原理が併存できるのかを考える」と言っています。
 内田の「天皇主義者宣言」なるものが、日本共産党の集団転向を権力とともに推し進めた「共同被告同志に告ぐる書」の復古と複製であると思います。本音は印税稼ぎ目的だとしても、天皇および天皇制とは稼業ですので、尊皇だの敬愛だのと言っている連中の本性は小判鮫です。
 『月刊日本』「私が天皇主義者になったわけ」2017年5月号のインタヴュー(https://blogos.com/article/221025/) が基になり、内田が追認した転向声明について、批判を書いている方はほとんどいません。
 一昨日に批判した橋爪大三郎の「尊王共和制」なる暴論と連動した、終わりが近い天皇制を延命させる悪辣な議論だと思います。
以下は、内田樹のブログからです。
『僕自身は欧米における共和制の登場には歴史的必然性があると思っています。でも、日本には天皇制がある以上、日本の場合は、それを所与の条件として勘定に入れなければならない。
 となると、どうすれば共和政と天皇制という二つの異なる統治原理が併存できるのかを考える、二つの異なる統治原理が併存していることから引き出せるメリットを最大化するためにはどうすればいいのかを考える。その方が時間の使い方としては合理的だと思います。
 僕は異なる統治原理が併存しているシステムは、焦点が二つある楕円のようなもので、単一原理で統合された同心円的な統治形態よりも自由度が高く、共同体が生き延びる上では有効ではないかと思っています。』
「『天皇主義者』宣言について聞く――統治のための擬制と犠牲」内田樹

 

 
以下私からの応答コメント。
 
内海信彦氏の内田樹天皇制肯定論(転向宣言)は端的に内田イズムそのものを批判した良質なものだ。
確かにこの転向宣言の批判はほとんどないのではないか。
世俗政権が腐りきっているから、どうしても対抗的に賢明な権力を見つけたくなる。確かに平成天皇皇后両陛下の人格は、国民に共感を呼び、戦争をした天皇の子として必死にどうあるべきであるのかを考え抜いてきた姿には胸を打たれるものがあった。
これらはまあ庶民レベルの感情で、思想家としての課題と格闘はそこを離陸して近代日本総体の中の制度的「天皇」存在そのものでなければいけない。
子安宣邦先生の内田批判は、明治維新そのものへの批判から天皇制の罪悪を剔抉した正当なものでした。
小生は、子安先生の論稿の紹介と補助線を引いたものを「奔4号」(だったと思う)に、先生の寄稿文に添えさせていただいた。
そもそも憲法学者自体が、いまや権力二元論肯定に陥って、一旦淘汰されたかに見えた天皇機関説(美濃部達吉=宮沢俊儀派)と対立した尾高朝雄ら反対学説(ノモス天皇論)が復活して、宮内庁で令和元年にそれをもって改元解釈変更をおこなっているのである。
内田だけではなく、宮内庁自体が、あらぬうちに天皇の位置づけを変更しているのである。これに気づいたのは子安宣邦先生などほんの少数であったと思う。
内海先生の内田批判を読んでいて、自分のはるか昔の眠っていた記憶がよみがえった。
静岡県は保守王国と呼ばれた。母方の親族は旧家で、県知事を四期務めた者もいて、母の大叔母は自民党大平派に属し静岡県の婦人部長を務めていた。その鼻息は荒く勢いがあった。
小生が大学を卒業する時期に、その婆さんから呼び出しがあった。よく聞くと、次男は政治が好きらしいと聞く、ついては一族に適任が居なくて、県知事も今は他人に譲ってしまったから、何とか自民党で政治家になってくれないか、というものだった。
確かに当時の自民党は「国民政党」だった。(笑)
左翼学生運動をしてきた者でも、政治好きなら自民党で政治家にしてしまおうという大胆と言うか、無節操というか、何でものみこんで、使えるものは使ってきた。
それがよかった、それが戦後日本を成長させたと肯定的に論じるのは、あまりに短絡過ぎる。そこには現在の惨憺たる陰陰滅滅とした日本の風景にたいする根本的批判などあり得ぬだろう。