天皇手紙事件の裏にある山本太郎議員の本当の問題

山本太郎議員、「皇室政治利用」で処分も=参院、1日に対応協議
(時事通信社 - 10月31日 19:01)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=2634704

11月2日には自民党石破幹事長は「テレビや新聞で大きく取り上げられることによって、存在感を大きくしようと思ったのではないか。天皇の政治利用と言われても仕方がない。何の問題にもならない、ということはあってはならない」と批判した。(読売新聞)

その見方は一面的で、やはり山本議員はテーマとしている原発問題の危機感から心底天皇陛下に情報を共有して欲しいと願ったのだろう。
政治史にはしばしば激越な個人的行為をみつけることができるが、今回テロでもなんでもなく、官僚の慣例にないことが行われたというだけだ。そうした行為の理由を不問にして、官僚の形式主義で議員と支持した国民の方向を阻害する政治的な試みはあってはならない。これこそ「政治利用」ではないか。

厳重注意で、はいすいませんでした、ぐらいで済む話だろう。

山本議員の問題は、それよりも「個人的に渡した」というのであれば、山本と天皇個人の話として、手紙の内容をマスコミにペラペラ喋ることは慎まなければならない、という点である。それは天皇の側からすれば、山本の情報を心に留めて、何らかの言及や慰問訪問をすればそれこそ政治利用したと言われかねないからだ。天皇にとっては自らの意思であっても、たまたまテーマが重なった場合には勘ぐられる危険がでてくるのだ。

その意味で山本議員は、配慮が足りない。

いまひとつは、議員は国民のための議決機関国会の場で、課題を論議することを義務としている。国会は議決の最高機関であり、内閣は執行機関である。それらを越えて超国家的に何事かを解決できると暗黙に、あるいは感覚的にもっていたとしたら、民主国家の議員として失格である。これがいち民間人が訴える場合とは全く違うことを認識しておくべきである。

ここは山本がリベラル派として、市民運動の出自にあることは決定的に思想問題として検証しておくべきである。
以下はmixiの若者向けにメモしたもので十分こなれた表現になっていないかもしれないが、転載しておく。
なお、現存在としての「天皇」と制度としての「天皇制」は分けて考えているのでお断りしておく。

本当の問題は、山本太郎がチャラチャラ園遊会なんか出かけてゆくことだ。
天皇を頂点にしたエスタブリッシュメントやエリートが、原発問題に触れることを禁忌として、何事もなかったかのように日常の回復と秩序を維持する垂直統合を担っているわけだ。
安倍総理が「すべてはコントロールされている」という虚偽を実体化する言葉の側に、問題を回収しようとするベクトルの内にあるといってもいい。
また無意識の日本は一つという表象を仮構しながら、実際には福島を首都が植民地化してきた近代日本の構造を支えている国内版ポストコロニアルを形作ってきた元凶ともいえる。

もう一つは、天皇に政治社会的な問題を直訴すれば、何事かが解決するという幻想だ。

天皇憲法規定の政治利用なんか空洞化してるからここでは問題を横において置くが、少なくとも天皇という共同体の幻想性へ一体化しようとするのではなく、福島の被害者の生活から問題を見据えて、どのような既存の党派や権威にもすがらず、自立した個人の聯繋で闘いを貫くことからし原発は解決しない。

それは、多くの被災者自身が、自民党という政治党派の幻想性に融解して、原発マフィアの体制解体から遠のいていることをみれば明らかなことなのだ。
良心的農民たちが、復興庁の官僚へ激烈な批判をしている。本来被害者である彼らが、今放射能汚染が怖くて福島県民が食べない農作物を他府県へ出荷して、みずから内部被曝に加担している欺瞞にやりきれないと口ぐちに訴えている。
農民たちが、自分たちの作った作物を食べないが、他府県民へ食べさせているという実態だ。
このように自覚的な農民は少数派で、大多数は自民党政府や行政の原発政策に融解した。原発被災者は、結局金で回る側に取り込まれ、原発安全神話を信じてきた地点に思想的には回帰しているのである。
それを断ち切るための、自立した個人の市民運動のはずである。

それは天皇でも、議員の権威で解決できることでもない。
個々の福島被災者と、原発推進してきた党派へ融解しない思想の強度を産みだし、それを確認しながら聯繋するしかないのである。
自らが、天皇や既成党派を相対化する立ち居振る舞いがなければ、ただの文句言いに終わる。山本に求められているのは、市民の意思を権力として構成することである。
市民運動の思想が山本には試されているのだ。

戦後の市民運動が、最後のところで、いつも既存の党幻想に絡めとられて体制補完の役割を果たしてきたことから、もういい加減に脱却しなければならない。

自民党の非難などほっとけばいいが、山本太郎はそれを自覚することだ。