「政治主義」についてのコメント

「政治主義」というとき、
従来から私は、シンプルに使ってきた。
すなわち、個々の政治行為の実存的契機を無視して、政治的効果のみに集約する考えを指す。
吉本隆明風に言えば、共同幻想側に最大化し、個人幻想は消滅させるような考え方。
例えば具体的には、革共同中核派のトップが半世紀ぶりに地下から出てきて、内ゲバで多くの革命家が死んだがどうかんがえているのか?と問われ、
「それは仕方がない」と一言で答えたような思考だ。
マイケル・ハートは、<コモン>(社会的共通資本)をみなで決定していく社会運動を極めて高く評価しつつ、社会運動に依拠した「下からの」コミュミズム(スターリニズムは「上から」)を高く評価している。
ハートは、現実的な社会運動や共同参画に根付かない戦略を「上からの」社会変革として、一種のスターリニズムとして退けている。それは政党によっても行われる場合がある。
これを「政治主義」と呼んでいるようだ。
「政治主義」は、民主主義の闘争領域を選挙戦へと著しく狭めてしまう欠陥を持つ。
(私が、現在の野党の欠陥として「議会至上主義」に陥っており、どうしても組織をもたない野党が選挙戦を空中戦だけで闘うため、得票になかなか結び付かない。「風」だのみとならざるを得ないのだ。)
そして、
専門家や学者たちによる政策論は問題を抱えている当事者の主体性をはく奪する、と。
これは齋藤幸平の解説によるものだが、頷かせられる。
当事者の主体性を剥奪する、という核心を軸にしている点で、私の使い方と重なる点があって、善しとしたい。
ただ70年前後は、新左翼党派諸君からは、ローザルクセンブルクだとか、社民だとか、ボリシェヴズムから逸脱する「邪宗」だと非難されたものだ。
(Facebookより転載)
 
 
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