斉藤幸平の「脱成長」概念についての俗流批判へ覚書

斉藤幸平への批判に、脱成長では人類社会そのものが行き詰まる、安易すぎるという批判が俗流批判として出回っている。それはまさに斉藤が批判するケインズ主義脱成長論であって、斉藤はそのような安易なことを言っているのではない。晩年のマルクスの解析から、資本主義に含まれる資本家に企図された希少性をもって絶えず生活破壊をしてまで資本の成長を貫く運動法則を止める、という意味で脱成長の概念を設定しているのである。

白井聡との対談で、本人が分かりやすく説明しているので掲出しておく。

 

脱成長こそマルクス理論の中核

白井 斎藤さんの論に対して、「脱成長を主張するために、わざわざマルクス理論を持ち出す必要があるのか」という批判が予想されますよね。確かにマルクスが脱成長について断片的に語っているだけなら、そのように批判されても仕方ありません。
 しかし、それは違う。マルクス理論の中核部分に脱成長があることを斎藤さんが論証した以上、そのような批判は当てはまらない。むしろマルクスを持ち出さなければ、実現可能な脱成長を主張することはできないということになります。

斎藤 そうなんです。資本主義のもとでは、脱成長は不可能なんですから。そこが旧世代の脱成長論と大きく異なる点です。『資本論』第一巻を刊行したあと、マルクスはまとまった著作は出していませんが、晩年の彼の遺したノートには、現代の問題を解決する大きな鉱脈が眠っています。人々が持続可能な社会で、豊かに暮らすために、資本主義社会を乗り越えないといけないということを、最もはっきりと示した思想家がマルクスなのです。繰り返せば、資本主義を前提とする限りでは、解決策はない。これは、グリーン・ニューディールで「緑の成長」をめざすケインズ主義とは完全に異なるマルクス独自の発想です。
 なぜ解決策はないのか? 資本主義には希少性を創造するメカニズムが組み込まれているからです。つまり、人々が無償でアクセスできた共有財を解体して、人工的に希少性を作り出すことで、資本は増えていくのです。そこでは、生活の「質」を犠牲にしても、とにかく資本の「量」を増やすことが重視される。資本の量が増えるのであれば、それによって環境が破壊されようが、多くの人が不幸になろうが、関係ない。
 具体例をあげると、入会地(いりあいち)の解体です。入会地はみんなで管理し、誰でもアクセスできる共有資源でした。それにより、人々は豊かな生活を送っていました。つまり、入会地は商品の価値とは無関係なものだったのです。
 しかし、みんなが生活に必要なものを入会地で調達すれば、市場で商品を売ることができません。それは資本主義にとっては非常に不都合なことです。そこで、資本主義社会では入会地に所有権を設定し、誰もが自由に利用できないようにしました。要するに、それまで潤沢に存在していたものを、無理やり、人工的に希少なものにしたということです。

白井 言うなれば、希少性の「捏造」ですね。

斎藤 希少性を作り出すことで、儲けのチャンスが生まれてくる。だから、希少性を生むために、資本主義は浪費や破壊を繰り返す。
 資本主義は本来、巨大な生産力を解き放ち、人々を豊かにするものだとされてきました。けれども、実際には格差は拡大し、環境は破壊されていくことになる。希少性に依拠した資本主義社会は、貧しい世界しか作れないのです。
 それに対して、脱成長とは、こうした社会からの脱却を意味します。脱成長とは、ソ連のように物不足で人々がいつも行列を作っているような社会ではなく、本来豊かであったはずの公共財に依拠した生活を取り戻すということです。

白井 ちょっと突っ込んだことを言うと、斎藤さんと私の『資本論』の読み方の共通点は、マルクスの「物質代謝」の概念への注目なんです。資本制社会とは自然の物質代謝の過程を資本の論理が乗っ取ってしまう社会。その論理は自然の論理とは当然異なるから、矛盾が生じる。それが環境問題です。つまり、マルクスの理論のド真ん中に環境問題をとらえられる視座がある。

出典:斎藤幸平×白井 聡 未来をつくる選択肢は脱成長しかない | 対談・鼎談 | Book Bang -ブックバン-