北田暁大は現在の「新しい運動」のいかがわしさが解っている。

SEALsが登場して、文化左翼がヨイショヨイショして、新しい運動だと担いで、言論商売にかまびすしい。

辺見庸が指摘するように、やるべき時になにもせず、若者がヒートしてきたら傷つかずにやり過ごしてきた青春の不燃焼感を穴埋めしようと、また「知識人」枠の中に安全におさまってご託宣だ。

こういう文化左翼をみているとヘドがでる。
そんななかで若手研究者の北田暁大のまともさが救いである。

筆者が指摘してきたのは、歴史修正主義は右翼だけではない、文化左翼やリベラルもどきも「新しさの捏造」をもって、ポジションを確保しようとしていることはパラレルなのだ。こちらは新しい意匠に変えて、何事かが進歩したように装う日本進歩派(モダニズム)の劣性遺伝子だ。

北田はみごとにその核心的問題を理解しており、若手のなかではほとんど唯一といっていいほど、全共闘運動の正当な評価と、その後のカルチュラルスタデーズに始まるポストモダンで育成された文化左翼・学者の欠陥を見抜いている。

このままでは生活保守国民と国家主義右翼に、その単なる「対抗イデオロギー」として再び敗北を招くのである。戦後史の切断で得をするのは支配権力側なのだが、それに便乗しているようではリベラルもどきも文化左翼も先は暗い。

以下、北田暁大のわかりやすいツイートが1月11日にみられたのでコピーを忘備録として残す。

小熊英二先生のことですね、わかります。鍵RT「作られた伝統」批判が好きな人は多いけど、一方で「作られた新しさ」にも注意すべきだと思うんですよね。本当は良くも悪くも色々なものを引き継いでいるのに、画期性・革新性を強調するため、過去とのつながりを否定するという。


「作られた伝統」批判するひとが「作られた新しさ」に飛びつくというのは、90年代以降の文化左翼の現在みてるとかなり顕著な気がするのだけど、論理的にどういう関係にあるのかよくわからない。議論の妥当性は「権力に批判的である/ない」なのだろうか。そりゃ真/偽で勝負する人に怒られる。


上野千鶴子さんが吉見義明先生の議論を「言語論的転回」という粗い話で批判し始めたとき、「なにを言っているの???」となって、書いたのが上野編『構築主義とは何か』所収の「構築されざれるものの権利」という論文。本気で意味が分からなかった。


「伝統(歴史)は作られる」は歴史記述が史料によって事後的に書かれざるをえない(ので当然反証・修正されうる)ということにすぎず、歴史的事実についてはたえざる検証過程に開かれていて、「実証史学」が権力の産物などという権力論とは別の話。


「伝統(歴史)は作られる」から、「自分たちも新しい歴史=物語を作ってしまえ」となると歴史修正主義と変わらないじゃない、と強く懸念していたが、上野さんや小熊さんの「運動史」観をみてつくづく「作られた伝統」批判と「新しさの創造」が同居することがよくわかった。


「70〜00年代の社会運動」を等閑視し、自らがコミットする運動の新しさを「学者の名のもとに」―運動家であれば当然のこと―捏造する修正主義に対しては、上野・北田対談「1968と2015のあいだ」、次号山口智美・北田対談(タイトル未定)『atプラス』でお話しました。



あと、杉田編『ひとびとの精神史』岩波書店に「上野千鶴子・消費社会と15年安保のあいだ」を寄稿しました。現在校正中。
小熊さんについてはそのうちまとまったものを書くつもりですが、概要はだいたいこんな感じ。こちらは歴史社会学方法論批判。


「伝統の創造」批判と「新しさの創造」論は論理的には独立だと思っていたが、両者の神話性は無視しえないのではないかと痛感したのが『帝国の慰安婦』問題。上野のほか、岩崎稔小森陽一酒井直樹、千田由紀、本橋哲也といった『現代思想』周辺の文化左翼が名を連ねている。かなりの衝撃だった。


小倉さんや四方田さん、星野さん、藤原さん、木宮さんはまた別の意図で賛同しているのだと思うが、「朴裕河氏の起訴に対する抗議声明」には民事訴訟に関する憂慮まで記されている。公権力への牽制は理解できるが、名誉棄損の民事訴訟を憂慮した理由がわからない。説明がほしい。


とはいえわたしは国会前のデモにも参加したし、今後も参加するだろう。一市民として強い危機を覚えているしそれを訴えたいから。しかしだからといって「新しさの創造」には与しない。別に新しくなくてもいいんだ―過去の問題を点検しつつ前進していけば―社会運動は。


カルチュラル・スタディーズのすべてを否定はしない。重要な視座も提供してくれた。一方で、政治にせよ社会問題にせよアートにせよ、伝統的な社会科学・人文科学を等閑視したその語りが大きな禍根を残したと感じている。歴史修正主義と社会経済を抜きにしたアートの政治論。問題が現在噴出している。



とりあえず歴史社会学のひともアートのひともアーサー・ダントーを読むことから始めよう。まじめにやろう。まじめにやるだけでいいと思う