吉本隆明は「感情的反原発運動」批判だが「推進派」ではない!

吉本隆明の「反原発批判」への批判ブログがあって、つい読み込みの浅さが気になって以下のコメントを書きなぐった。
ところがコメントはエラーで受け付けられないので自分のブログにメモとして残しておく。

まあ確かに吉本の思想を実証主義的ないしアカデミズム的に受け止めるとと、発言は玉虫色。あるいは姜尚中のように近代主義者という罵声を浴びせることになる。しかし方法概念としての思想の吐露として読むと全く正しい。それだけの違い。

「週間新潮」新春号のインタビューでは、脱原発派にも推進派にも与しないと明言している。人類史の問題だと。そのパースペクティブからすると、貴兄の読みは全く吉本をかすってもいない。最大のリスクとなっているフクシマ四号機の廃棄燃料棒処理、停止しても数万年にわたって放射し続ける放射線の対策、世界最大量の保有としてあるプルトニュウムの処理方法はいまだ未確立、こうした現実問題を克服するには、現在以上の核処理技術の高度化が求められる。何よりも原発廃棄した後のすたれた技術分野へ若い研究者技術者が集まるのか?それらを考えた場合、吉本の核技術は「自然」過程でしかないという認識はなんら間違いではない。原発は経済合理性で、儲からないと判明すれば資本の側が廃棄するでしょう。吉本は核エネルギーに代わるものを人類がさらに開発していく、そういう自然過程を容認しているにすぎない。
問題は、現在の時点で核技術ではなく、「原発」をストレートに維持するという転倒していように受け止められる発言である。これも吉本らしい逸脱で、オウム事件反核運動批判を想起すれば、明言しているように、推進することではないと本意が理解できるはずである。
それは経済合理性と国民の冷静な論議で決まると言外に述べていることがわかる。その証拠に吉本反原発発言は、「感情論と恐怖心だけの反原発」を対象にしていると述べ、本当の原発論議はもう少し時間がかかると見通している。今年の「週間新潮」正月インタビューのことである。
なお、貴兄の「戦争」をあてはめた戯文は面白いが、戦争と核技術を吉本は同列に論じていない。こういう悪意は思想を受け止める真摯さに欠けているので不快です。やはり『戦争論』2巻に沿って語られるべきでしょう。
とはいえ、わたくしは別の意味で吉本の「自然」了解と「疎外」概念の点検は必要だとおもっておりますが、いまだ結論を持ち得ていません。それには中沢新一の愛情あふれる吉本追悼文がカギとなるだろう。

吉本の「反原発論」を取り上げて某詩の同人誌へシリーズで書き始めたところです。資料的な意味で書き始めたばかりであり、まとまればまた掲出してご批判を仰ぎたいとおもっています。