二院制の是非を憲法制定時点に遡る−松本譲治の無能と没国際性

無条件降伏を受諾した日本は、新憲法作成をGHQから命じられ、幣原総理は松本譲治に丸投げする。
松本は、元東大法学部教授者で国務大臣
人物は、明治憲法以外知らない保守、エリート臭を漂わせた自信家だったようだ。
座長に座り憲法調査会を組織して日本案作りを進めた。
日本の場合、おかしな習慣は、これだけ大事業にもかかわらず、松本は自分の別荘にこもって一人で作成に没頭する。もちろん他の委員との会合もあるのだが、共同作業ではなく、松本の意見を聞く会だったようだ。

これはGHQが分担制で、会議の合議で決していくのと明らかに違った。
日本の明治以降の重大事は、いつも一人の人間が密室で決め、いつの間にか決定事項として下々に下されるというスタイルをとっている。

細かい話は飛ばして、二院制採用のいきさつだけ、簡単に書く。

松本新憲法案は、アメリカに提示されたがアメリカ側はびっくりして松本案を全面却下。
理由は、マッカーサーの示した三原則すなわち民主的憲法であることにとても及ばない明治憲法焼き直しであった点、また憲法草案でありながら閣議も通さず制定手続きを踏まえていない、この二点であった。
これによって、GHQは日本人の民主主義の能力を「12才の少年」と揶揄し、日本人に任せていたら国民が不幸になり、自分たちも統治者として他国から非難されるとして、全面的に介入を始める。

以後は逆にGHQ案を日本側が確認調整する作業に入る。

GHQ案第41条 国会は、選挙された議員による一院制で構成され、議員の定数は三〇〇人以上五〇〇人以下とする。

これに対して、松本は、GHQホイットニー民政局長との打ち合わせで、全くこれはていをなしていないと考えていたので、異議を挟み、二院制に改変させることに成功する。

自信家の松本は、後年このいきさつを次のように述べている。
「大国で一院制をとっいてるものはほとんどないように思うが、どういう理由でそういうことをされておるのかと言いましたところ、…日本には米国のように州というものがない、したがって上院を認める必要はない。一院の方がかえってシンプルといういう言葉を使っておりましたが、そういう答えをされた。これは全然議会制度を知らない人の答えである。」
そこで、二院制はチェック機能として必要なものですよ、と教えてあげたと述べている。
「むこうから来ている四人の人は、顔を見合わせて、なるほどと思ったらしいのです。初めて二院制というものはどういうものであるのか、チェックアンドバランスということは、どういうことをいうのであるかということを知ったというような顔をしたのでただ驚きました。
そしてこういう人のつくった憲法だったら大変だと思ったのです。
これはわずかな成功の松本の自画自賛で、実際は松本の提言はことごとくGHQに退けられ、保守憲法案はことごとく弾かれ、自信家の松本は落胆し、腹を立て、この調整後はほとんど官僚まかせにしてしまう。その結果1954年にわずかな誇りとしてこのような回顧談を述べている。

実は「おしつけ憲法」を言い始めたのはほかならぬこの松本の回顧談あたりから。岸信介内閣の「憲法問題調査研究会」の中で制定経過報告として初めて松本が言及したと言われている。もちろんこの時岸はアメリカから軍隊を作るよう要請され、憲法改定を企図して、その一環として設置された調査研究会である。

さて、この松本の手柄話には、本人も気づかぬトラップが仕掛けられていた。
GHQは、二院制でもいいし、どちらでもいいだろうと考えていた。しかしケーディス(運営委員・陸軍大佐)は、日本政府との「取引の種として役立つことがあるかもしれない」と述べており、極めて戦略的に、注文がつくことを承知の上でケーディスが放り込んでいたものだ。
松本は自信家で井の中の蛙だから、自分の提案に聞き入り、四人が顔を見合わせている姿をみて、こいつらは法学者の俺にはかなわない、バカがやっと俺の言うことを理解したかと思ったようだ。

ところがケーディスは、引っかかったなと顔を見合わせ、予想通りだ、これを認めてではあちらを挿入し納得させることができたとほくそえんでいたのである。

松本ら日本の支配層がいかに井の中の蛙、無能な連中かがよく解る。重要な交渉に相手の能力分析も戦術も知らずになめてかかっている。

松本が小馬鹿にしたGHQ運営委員会のメンバーは、トップはすべてそうそうたる法学者や弁護士出身の軍人である。日本の軍人とちがって士官学校純粋培養ではなく、民間から抜擢された勇敢知将がほとんどを占めていたのである。

(運営委員)
ケーディス  40才、コーネル大、ハーヴァード大ロースクール卒ニューヨー       クで法律事務所勤務弁護士。

ハッシー   44才、ハーヴァード大政治学卒、ヴァージニア大ロースクール       卒、弁護士、裁判官。プリンストン大海軍軍政学校卒。

ラウエル   42才、スタンフォード大・ハーヴァード大ロースクール卒、弁       護士、合衆国法務官、陸軍軍政学校卒。

エラマン   女性スタッフ

全員が法律家であり戦功叙勲者である。
以上この四人が、七委員会を統括し、全体の憲法草案をまとめ上げていった。

松本は、敵の素性も知らぬまま、自説に「感心した」三人に、教えてやると称して白洲次郎に説明補助資料を翌日持たせている。いかにバカか。
この男が腹いせに後年述べた「おしつけ憲法」論を、今の桜井よしこはじめネトウヨが騒ぎ立てるわけだが、バカはバカの遺伝子までも引き継ぐ結果となっている。

「おしつけ憲法」は間違いであると断言しておく。理由は以下の通り。

ポツダム宣言による無条件降伏受諾をした延長に、マッカーサーは新憲法作成を指示した。
これ自体は敗戦処理として日本は承認している。

GHQは、日本政府に原則を示して作成を指示した。
にもかかわらず、日本政府は従わず明治憲法焼き直しを、閣議も通さず提出した。
日本政府の無能の結果の収拾策としてGHQの介入を招いている。日本政府の落ち度である。国際感覚の欠如であり、敗戦事実を軽く他人事としてしか受け止めていない支配層の怠慢である。チャンスを放棄したのは日本政府自身にあった。

さらに隠蔽されている事実。
1946年11月3日公布されるが、時の総理大臣吉田茂マッカーサーから一通の書簡が送られてくる。吉田の受取日は年が明けてすぐ1947年1月3日である。



親愛なる総理
 昨年一年間の日本における政治的発展を考慮に入れ、新憲法の現実の運用から得た経験に照らして、日本人民がそれに再検討を加え、審査し、必要と考えるならば改正する、全面的にしてかつ永続的な自由を保障するために、施行後の初年度の間で、憲法は日本の人民ならびに国会の正式な審査に再検討されるべきであることを、連合国は決定した。もし、日本人民がその時点で憲法改正を必要と考えるならば、彼らはこの点に関する自らの意見を直接に確認するため、国民投票もしくはなんらかの適切な手段を更に必要とするであろう。
換言すれば、将来における日本人民の自由の擁護者として、連合国は憲法が日本人民の自由にして熟慮された意思の表明であることに将来疑念がもたれてはならないと考えている。
 憲法に対する審査の権利はもちろん本来的に与えられているものであるが、私はやはり貴下がそのことを熟知されるよう、連合国のとった立場をお知らせするものである。
新年への心からの祈りをこめて
                           敬具
               ダグラス・マッカーサー


これに対して、吉田茂は、1月6日付の返信を書いている。

親愛なる閣下

1月3日付の書簡たしかに拝受致し、内容を子細に心に留めました。
                          敬具
                吉田茂

わずか一行のそっけない、どう思ったかも解らない返事だ。おそらく吉田にはこの憲法で特に支障はない、と思っていたことは事実であろう。

マッカーサーは、この二年間で日本政府に見直しを指示した。
日本政府はその必要性はなしとして見直し論議もなかった、もちろん自由党からもなかった。
この事実を桜井よしこネトウヨは隠蔽し、歴史をねつ造するのである。

「おしつけ憲法」などという言い草は、所詮東大法学者の無能なプライドが言わせたことで、私怨でしかない。政治を私怨や史実捏造でやられてはたまったものではない。

岸が保安隊(自衛隊)を作り、アメリカが冷戦を戦い抜くためのに日本に本格的な軍隊を要求し、軍事同盟による集団的自衛権をもって米軍の先兵とする日米一体化論が進行するとともに、「おしつけ憲法論」が持ち上がり1950年代中頃から論議されるようになる。
日本保守のふりをしながら、実はアメリカの要求に応えようとする隷属の精神が言い立てるのである。だから私は真正右翼は受け入れてもネトウヨ売国の輩だと思うのである。

(参考文献)
古関彰一「新憲法の誕生」中央文庫