追記/横浜地裁、川崎市ヘイトスピーチデモ規制決定━ヘイトスピーチ規制法後初判断

川崎市内の在日コリアン支援法人事務所が、何度も「在日特権を許さない市民何某」から襲われていて(デモで狙い撃ちされていて)恐怖を感じていたようだ。
この法人が横浜地裁川崎支部へデモ差し止めを要望し、市議会全員一致のデモ規制要望書を基にして人格権を侵害する表現の自由を禁止すると、明確に規制した。

各紙表現の仕方にデフォルメがあり、毎日新聞が一番正確であった。
それは、規制の内容は、事務所周辺のエリア規制であり、デモ起点となる公園使用不許可はその付随的なものである。しかし人格権を低くみる新聞は、表現の自由に抵触し、公共施設を不許可にすることとして不公平ぎみな表現をかもしだしている。

エリア規制は、公安委員会は慣例的に規制しており、過激派などには当然になっている。
弁護士のなかでも一部リベラル派は憲法違反だと騒いでいるが、こうした弁護士が過激派のデモ規制に憲法違反の抗議をしてきたなどということを、私は知らない。
従ってヘイトスピーチデモにのみ主張することが理解できない。

決定は、過去の男性(在得会-筆者註)の差別的言動を「法人の活動内容を真っ向から否定するもので、存立基盤を揺るがす」と認定し、ヘイトスピーチの程度が顕著な場合は事前の差し止めも認められるとした。その上で、街宣車やスピーカーの使用だけでなく、大声を張り上げる行為や第三者に行わせることも禁じた。期限は区切らなかった。
(毎日新聞引用)


状況的な問題を二三挙げておく。
このヘイトスピーチデモを規制したことは、とりあえず歓迎するし当然だと思う。

この地裁判断は、やはり市民と市議会のヘイトスピーチ阻止への合意があったことが大きい。
規制法は理念法だから、各自治体の市民合意の強度が法の生き死を決定づける。
これは住民の民度で、マイノリティの安寧な生活にばらつきがでてしまう。
早期に次の段階として、罰則を設けることだ。

リベラル派がこの地裁判断の主旨を理解せず表現の自由にこだわって批判するが、その周辺には在得会支持派が寄り集まって憲法違反を騒ぎ立てている。
この結果をみれば、人格権に対する重要性に盲目でいることが解る。それは人権条約を締結しながら、20年近くそれの国内法をほったらかしにしてきた法曹界の守旧態度の帰結だ。
人格権が日本ではあからさまに侵害となる事態は過去になく、認識が低すぎて表現の自由との衝突を経験してこなかったことに理由がある。

ヘイトクライムを左翼的に意匠した運動は初めての経験といってよい。
法曹関係者も文化左翼もここで別れた。
法律論より、拡大する被害を「具体的に」即時停止させることが喫緊の課題であったはずだ。

曲りなりにこれを目的にしたのは、SEALDsの野間易通ら「しばき隊」であり、カウンターデモ参加者である。
その経過のなかで、「しばき隊」のヘイトスピーチ者の捜索によるリアルな暴行事件である。(訂正:しばき隊内部の内ゲバが事実のようだ)
筆者も、ネットで野間らと熾烈な論争をしてブロックをされた。
彼らの正義の「抗議方法」の絶対化に疑問をもち、運動に危惧した人は多かった。
野間らへの批判者ブロック12万人を、彼らは誇った。SEALDsの奥田は知りつつ沈黙をまもった。ネットで売り言葉に買い言葉ならまだしも、賛同者の質問やデモへの注文者へも罵倒して一瞬にしてブロックし、「しばき隊」はカウンター活動でヘイトスピーチ者を恫喝したりする武勇伝が誇らしげに画像掲載された。

これを勇気あると共鳴しつつも、これは危ういと真面目な社会運動経験者はSEALDsに異議を申し入れたが、今回の暴行事件で、奥田代表はやっと「しばき隊」とは関係がないと述べた。なにやら政治家と秘書のようだ。

筆者の主張はこうだ。
野間の目に余る暴力(ネット暴言でも晒しも暴力)に抗議してブロックはされたが、運動の経験者として運動過渡期の未熟さとして私怨にしないことにしている。

なぜなら暴行をもってヘイトスピーチ者を被害者として帳消しにしたり、その卑劣を許すわけにはいかないからだ。

かといって暴行事件をまるごと肯定もできない。

ヘイトスピーチ問題のすべては、被害が拡大進行は早いが、規制が追い付かなかった点にある。有田芳生議員などの尽力で法規制が不十分ながらできたことで、コモンセンスとして「悪」と規定できた。それまではヘイト側とカウンター側のあるいみで「主観の力」のぶつかり合いとなって、国民合意としての基準がなかった。だから警察の現場規制をみれば、ヘイト側を保護し、カウンター側を規制し、カウンター女性に暴行をふるったとして国会で大臣が謝罪するという事態にもなったのである。

この警察の「公的暴力」の動きに対して「しばき隊」は逆の「私的暴力」を行使した。こうした国民合意=規制法までの過渡期の混乱である。
社会運動としては、「過渡期」の問題として避けえなかった最悪の事態だといえる。
原理論者は正論しか言わないが、では法律解釈論の前になぜ具体的阻止方法をマイノリティに寄り添って、提示できなかったのだ。法律解釈論より、マイノリティの平穏な生活の防衛、恐怖感の除去が優先できなくて、なにがリベラルだともいえるわけだ。

ここで野間らのやり方は、支持者を離反させていくやり方であって、個人的には警察のスパイではないかという個人的疑義ももっているが、確証はない。
過去の学生運動の公安スパイは、明確な証拠があがるほどヘマではないから証拠は知らないが、過激さをつのらせ同調者の分断と離反をさせる手はままあったと聞く。
新左翼の党派リンチは何某かのスパイが関係していると活動家のあいだでは公然の秘密となっている。

それは横へ置いておくとして、リベラル派の表現の自由尊重派とヘイトスピーチ在得会派は、憲法違反と「しばき隊」暴行事件で、今奇妙な共闘関係に入っている。
この辺りは暴行事件の裁判が始まるまでに、SEALDsは組織というものがあるなら、何らかの見解を表明しておくべきだろう。
SEALDsで自己のロマン的欲求をみたした小熊英二内田樹など文化左翼も思想として見解を述べなければおかしい。いい面だけ掬い取って、醜悪な面にホウッカムリではあかんで、と言っておこう。

なお野間らにブロツクされ、SEALDs同調者とヘイト側両者からさらし者にされた筆者は、ひとえに規制法がマイノリティとして在日コリアの永住者にフォーカスされているため、それから漏れたマイノリティに配慮されていなことを主張し、「マイノリティの暴力」は止むをえない、との述べていることである。

在日コリアンだけを表象すると理解できない。
筆者は二三年前の大阪ネパール人撲殺事件が頭を離れないからだ。

ビザ入国外国人は規制法でも対象外だ。
ネパール人は日本で妻子を設け真面目に働いていた。しかしヘイトクライム数人から通り魔的に路上で撲殺された。

暴行の間、マジョリティはただ見ていただけ、誰も身を挺して止めに入ったものもいない。警察は2〜30分後にくるのだが既に瀕死状態だった。
「暴力はなにがあってもいけない」という、マジョリティのテーゼは、マイノリティには死であるという事実。

筆者は、マイノリティはなぜ撲殺されるまで全く抵抗せずいたのかと不思議で考えた。
おそらくビザ入国者は事件をおこせば強制退去処分だ。日本で築いた安定した幸せな家庭と仕事を一瞬で失う、それが脳裏にあったのではないか。
正当防衛を主張しても、アジア外国人には日本の官憲が厳しい取り扱いをすることも感覚的に知っていたはずだ。

死ぬまでの暴行を許してしまうマジョリティの「暴力はなにがあってもいけない」という遵法テーゼは、マイノリティにはマジョリティ側の抑圧となり、共生の生活空間を享受できない「場合もある」と認識することが必要だ。
「時にはマイノリティには抵抗権としての自己防衛の暴力」は認められるという言説が普及していれば、マジョリティの日本人も加勢し、あるいは目撃者として正当防衛を支援してくれたかもしれない、という考えが脳裏を離れないのだ。

そうすれば、日本の官憲も、アジア人マイノリティにも白人なみの寛容さと法の公正な適用を十全なものとするだろう。

あのナチスに狩られてラーゲリへ黙々と群れなしていったユダヤ人たちに、「マイノリティの抵抗としての自己防衛的暴力」という言説が流通していれば、もう少し違った対応もとれたのではないのか。
強制連行の朝鮮人も、自らを解き放つことが可能であり、マジョリティも加勢して悪質なレイシストを粉砕できたかもしれない。

この法が機能していないとき、ネパール人やユダヤ人たちをいったい誰がどういう方法で助けられたのだろうか。

実質的無法下のレイシズムに対抗する「マイノリティの正当防衛的暴力」の言説の流通は、マジョリティ側の人格権の保護にもつながる。
いまだに人格権より表現の自由が「絶対的に」優位だと考えて、「何があっても暴力はいけない」というテーゼを常識にしている限り、マジョリティ同士の人格権もないがしろにされる可能性はたぶんにあるからだ。

もちろん、マジョリティ同士の「絶対正義」からする私的暴力は許されないことは言うまでもない。

(追記)
しばき隊暴行事件について、全体の事実が入ってきたので、記事訂正をしておく。「しばき隊北新地暴行事件」といわれている。
要は大阪在日コリアンの反ヘイト運動で、しばき隊のメンバーが、仲間内で暴行事件があった。昨年の暮れのことのようだ。それに女性物書きが首謀者としてかかわっており、彼女は不起訴、他二名が罰金刑。彼女の犯行をなかったものにしたのか、週刊誌が彼女が関係していたと報じた記事を関係なかった旨のお詫び記事を出した。

従って、東京のSEALDsしばき隊は直接関係しておらず、どこまで知っていたのかも不明だ。
しかし問題は、これが公になってネット上で批判した人に、SEALDsが虚偽としてバッシング炎上させたこと。
筆者のように、市民道徳でいう暴力と、政治過程に入ってきた暴力と同列に論じない者は、この原因が路線の違いなのか、個人的な行き違いを主原因としているのか、そこがわからないままでは、個人体験的して市民道徳から「暴力はいけない」などと即断できない。ということで、少し逸脱した書き方もあるので、訂正し、しばし成り行きを見守ったうえで、関係者と知識人とSEALDsの言及を待ちたい。