ヘイトスピーチ規制法後の各地デモで在得会を封じ込む

土日にかけて、ヘイトスピーチデモが荒れた末、カウンターの抗議行動もあり、ほぼ封殺されたようだ。

いくつかの論点を整理しておく。

1.川崎市のデモは、物議をかもしている。
横浜地裁はエリアと公園使用不許可を認めたが、県警川崎署はコース変更のデモを許可した。
警察は、在得会へ中止勧告をしたが、聞き入れられなかった。デモは出発したが、カウンターによって10メートル進んだところで再度警察が中止を勧告して、主催者中崎某が受け入れ中止した。

[在得会擁護派主張]
表現の自由を規制した憲法違反である。
 ヘイトスピーチをやめさせて、政治主張だけはさせるべきだ。ヘイトスピーチ
 止めさせてサイレントデモに警察はすべきだが、初めてのことで混乱している。
②カウンターの阻止行動は暴力行為ではないか、逆の立場になったとき受け入れられるのか。道交法違反、威力業務妨害である。

2.筆者の管見

①について。
まず体験的にいって、学生運動や過激派のデモは常にデモ規制は行使されてきた。それに過去、憲法学者や識者が憲法違反といったことがあるのか?
なぜ、突然ヘイトスピーチへのカウンター批判、在得会デモ擁護の理由として表れてくるのか? この主張にぶつかるたびに質問するが、弁護士も学者もまったく回答しない。
こうなると、安倍総理憲法解釈変更なんか批判できやしない。自称リベラル派のこの沈黙でおかしくなる。
それに答えたうえで、ヘイトスピーチデモ規制法が憲法違反だと言ってもらいたい。でなければ、端から偏見と法の恣意的解釈をしているわけで、論議の俎上に挙げる必要はない。

関連して、警察が問題だとした意見。
警察法第二条は、「(前略)交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当たることをもってその責務とする。」と述べている。
警察は、カウンターの情報をもっていたはずだ。それで在得会へ中止勧告をした。受け入られないため公安条例の「差し迫った危険がない限り」デモは認可しなければならないという規定に沿って許可せざるをえなかったのだろう。

デモはスタートした、しかし路上に座り込んだカウンターにより進行できなくなり混乱した。急きょ安全をはかるため解散勧告をした、ということだと法を追えば理解できる。
とくに警察に落ち度があったとも思えない。

筆者は欲を言えば、警察庁長官の指示が規制法の主旨を徹底するという警察の任務を新たに出したばかりなのだから、地裁に連動してデモを許可すべきでなかったと思う。

なお、ヘイトスピーチでなくサイレントデモを在得会が遵守するなら、デモは認めるべきだという意見は、否定しない。政治主張まで封じるのは表現の自由に抵触する。
しかし、サイレントデモであっても、人格権侵害の主張なら筆者はできれば具体的侵害と被害が特定できる在得会デモのようなレイシズムの主張は制限した方がいいと思う。
これは思想的問題がかかわるのでここではこれ以上論じないが。

②について。
抗議行動は具体的阻止行動とデモ集会のような示威行為とがある。
阻止行動は、法が追い付いていない、あるいは行政権力や世論の強い偏向で法の無効状態のような場合、市民が結束して進行する不当行為を阻止するものである。
この極め付けが中東の春やソ連東欧の政権崩壊である。

阻止行動では、日本のような曲りなりに国家暴力装置が機能しているなかでは、私的暴力は禁止されなければならない。あるいは反対派だからといって私的に制裁していいわけがない。
社会哲学では、この私的暴力はMachtというが、これに対して阻止行動の実力行使をGewaltという。日本語で訳すと誤解がしょうじるのでいい訳語が見当たらない。あえて言えば強制的執行力とでも言おうか。ドイツの場合行政執行権という訳語でフィッテングしている。
沖縄の基地建設の座り込み抗議、三里塚農民の強制執行阻止鎖巻き付け行為などが思い起こされる。

さて、この阻止行動カウンターが表現の自由を阻害したという在得会支持派はもっともらしいが、ふたたび元にもどるが、右翼のデモ殴り込みや街宣車妨害や日本刀切り込みなどの阻止行動は憲法違反ではないのか?
なぜ学生運動や社会運動へのカウンターウヨクの阻止行動には、ひとことも憲法違反を騒ぎたてなかった弁護士や学者が騒ぐのか?
この根本的な法解釈に恣意性がないか、よーーくわかる説明をしてから、在得会擁護の解釈を主張して欲しい。
ただカウンターの座り込みだけを法律違反かどうかといえば、解釈論でいえば擁護派の主張の通りで否定はしない。
しかし、規制法の主旨からすれば、この抗議行動自体は趣旨にのっとっている。
その文脈を無視して、行為を分解するのが法律論ではあるが、今回立法趣旨を踏まえているという点で、何ら問題ではないと解する。

そもそも、警察や軍は平時は遵法精神にのっとり、法的根拠でまがりなりに動いている。しかし、一国の法が無効化された事態のなかで、抗議行動が国民の一般意思を形成した場合、法解釈を越えたところにいく。
そのとき警察や軍は、抗議行動側につくことも歴史の示すところである。

急いでいるので、掘り下げる問題は多々あるが、差別問題は誰が緊急の被害者か、法律解釈論の前に人権救済をせよ、論議は後だ、というのが筆者の基本的考えである。