地方の本屋さんも、『評伝島成郎』を山積みしてください!!

今日は地元の本屋を回った。
「評伝島成郎」が置いてないから、若い店長にお願いした。
ところが、島成郎を知らない、安保闘争も知らない、という。
ひょっとして理系なのと訊くとそうだと言うのだが、それにしてももう宇宙人ばかりだ。
少し説明して、新聞全国地方紙まで書評がでているのだからすぐに置きなさいと「命令」しといた。はたして…。

さて、『脈』97号(2018,8,5)をさらっと「評伝島成郎」書評関係を読んだ。
11本ある。
みんな自分の関心の範囲に引き付けてよくこれだけさまざまに書けるものだと、感心した。
しかし気になる点もあった。
内田聖子さんは1943年生まれのようだが、何か腑に落ちない書き方をしている。最初は平成世代の若いライターかと思ったほどだ。
①活動家にありがちなアジ文がないのが好感を持てる―
必要があればアジ文も引用されたりするのであって、書中に記述としてなくても、佐藤幹夫は取材過程で嫌と言うほど読んでいるかもしれない。
②吉本はブントの心意気に呼応しようとして学生にくっついていっただけで、何ら闘争に寄与もしなかった―
事実誤認も甚だしい。
全学連学生二万人が…ジグザグデモに移った。これに応戦しようとする警官隊と衝突、そんな中、事件は起こった。東大の学生であった樺美智子の死である。(「圧死」か「警官の殴打による死」か、警察と学生側とで異なる)―
この空々しい「客観的」記述はなんなのだろう。これはただの「事件」なのか、「死因」は既に警棒の先端による強い突きによる内蔵破裂であることは、検視医師によってほぼ明らかになっているのに。このNHKのような記述の仕方はライターとして解せない。
③この人は、活動家を支えた内助の功というか、女性の一途な献身に惹かれると書いているが、左翼運動の一番ダメなところとして、全共闘以降ウーマンリブによって徹底的に批判されたことはご存じないのだろうか。中でも党派の活動家は革命の大義の前では父権的な女性蔑視が存在し、女性の人権を踏みにじったという上野千鶴子らの批判があります。ウーマンリブの運動は、これを契機に70年代から盛んになっていった経緯を知っておくべきでしょう。

それから、島が沖縄行きを決意した動機の推測について。
殆どの人が、反安保闘争の視野に沖縄が入っていなくて、それに対する贖罪の意味があったように言うが、それはどうか。
活動家の心情をあまり解っていないのではないか。
わたしは、それは後付けの自己合理化であったろうと推測する。本人の意図とは別に、沖縄派遣医は「職務命令」として出されており、本人が希望した形跡はない。
沖縄の実情と本土復帰闘争前夜を見る中で本人は学んだのであろう。贖罪なら沖縄の政治活動にかかわればいいことであり、しかしもうその気はなく、医師として生きようとしていた。政治転向は、当時の活動家には、内心はまだ負性として本人に意識されたはずだ。かっこ悪い自分を納得させる正義の動機付けが欲しかったとみるのが自然なのである。自分を支える正義の一杖が欲しいのだ。
敗北の後は辺境へ向かいたくなる、自己韜晦でもある。

革命運動の転向概念が死語となるには、その後の十年を経て七〇全共闘を待たねばならなかった。全共闘ノンセクトには転向概念は死語となっている。しかしそれでも党派にいた新左翼活動家には相変わらず転向は簡単なものではなかったのではないか。
政治革命をめざす左翼党にとって、島のように六〇年時点で、政治から個別課題闘争へは明らかに日和見主義としてネガティブに考えられていたはずだ。
それを政治決戦主義の敗北から必然の闘争形態だとして個別闘争に流れ込むのは七〇年全共闘(ノンセクト)まで待たなければならなかった。
島のこの撤退戦をあまり美談にしたり、神話化することは危険である。

従ってむしろ島成郎は、沖縄によって救われたといってよい、というのがわたしの見解である。

なお、わたしの知らない数十年のうちにたくさんの文献がでているようで、二三図書館で見てみた。

立花隆は、島の名前に「しまなりろう」とルビをふっていて大丈夫かと嗤った。

若手の誰かが『全学連全共闘』という新書には、めんどくさいから日大闘争の全共闘は捨象すると「宣言」して東大全共闘だけを記述している。
六〇年全学連は、一枚岩的に均質な活動家として時代的にも、パルタイしこうとしてのブントであれば、まだ一枚岩的に取り扱って記述は可能かと思う。
しかし、全共闘運動は原理主義闘争であり、実存的要素が濃厚であった。一人ひとりが様々な思いや位置づけで参加したのである。百人いれば百人の闘い様があったはずである。
従って、東大全共闘だけをもって、当時の日本の政治社会闘争の表象代行をさせることは「歴史への犯罪」であるとわたしは見做さざるをえない。

(Facebookより転載)