是枝監督『万引き家族』寸評

今日は是枝監督の「万引き家族」の上映初日、さっそく観てきた。ひとことで佳い作品だ、ただしプロ受けするが素人受けするかどうかは疑問。
それは帰りがけの観客の口々にあれがパルムドール賞をもらうほどのものかと言った感想が聴こえてきたきたことでも解る。
おそらく、昨今のエンターテインメントの作品ばかりになっているなかで、この作品は「さび」らしい「さび」がなく、淡々と日常風景が描かれているせいだろう。
心理的描写でみれば、幾つかあるのだがそれは心理的な登場人物たちの演技(表出)のなかに読み取るしかないからだ。それはそれなりに訓練が必要で、オーバーアクションのエンタメばかリ観ていても養われない。

作品はなんらかのいわくをもった老婆男女子供たちが「疑似家族」を形成するはめになった。
前科者、親に捨てられた子供たち、などなど。倹しくも一つ屋根のもとで万引きを公然として、半ばなりわいにしながら生きている。そんな「疑似家族」でも「絆」はほんもの家族より強く暖かい。
この暖かさが、底辺に生きる貧民の傷つけあいながら、口汚く罵りながら、しかし最後の処で男女で、親子で抱擁するという、その描き方が秀逸である。ヒューマニズムなんてヤワなものではない。こういう描き方はプロしか見抜けまい。
地域共同体が崩壊し、学校が崩壊し、家族が崩壊し、人間ひとりひとりが毀れて、浮遊する現代の寄る辺なさが寒々と描かれる。どこに現代人は存在根拠を求めたらいいのか。
最後に疑似父親との訣別を決意する施設に送られた少年のバスで去りゆくシーンに、なんらかの希望とでもいうものがあれば、それらの再生を託しているのだろうか。
同時に、虐待に合ってきた幼女は、行政によって親元にもどされたが、再び母親の虐待の兆候を予感させるシーンが挿入され、幼女は狭い檻のような隙間で孤独に遊ぶシーンで映画は終わっている。
この幼女の行き着く先は、まさに「東京目黒少女虐殺事件」のことではないのかと、鉛のような不安を胸に抱えて映画館を出たのだった。

では是枝監督は何をいいたかったのか。
「世間」の「子供は実の親ですくすく育つ」という「常識」に真っ向から懐疑を提示している。
親の虐待、虐殺は後を絶たないというのに、この「常識」はある支配的考え方として虚構であることによって強く信じられている。虚構ほど強く人々を拘束する場合があるからである。

この「常識」に、是枝監督はどういうシーンで「疑似家族」であっても、人間としての信頼と絆で結ばれたなら、子供は自ら「常識」の殻を食い破るものだという演技を挿入しているか。
見落としてはならないのは、少年が疑似親と訣別し、施設へ帰るバスでのもう訣別の決意に満ちた顔は、実の親とも疑似家族とももう必要としない、強く自立した個の決意の表情である。成長させてくれた疑似オヤジとの哀惜とともに―。

いま一つは、幼女が実母の誘惑の罠を強く静かに拒絶態度だ。
実母が虐待開始の誘惑は、「お洋服買ってあげよう」という言葉とともに呼び寄せて始まる。
疑似家族から戻されてからは、実母のこの言葉を幼女は静かに強く拒絶するのである。幼女といえども、自立することによって自らを回復する直感を「疑似家族」の愛情からかちとっているのである。

しかし、それでもエンディングは不安に満ちた子供たちの未来を予感させて余りある。
さらにこの解体しきった「家族」を、自らとは隔絶した他人事としている人たちの存在は、さらに不安の奈落に突き落とすのである。


なお、是枝監督は政府の賞授与をけったとのこと。
わたしは、そこまで粋がらなくてもいいのにと思う。
フランスの賞はもちろん国家権力ではないが、それでも「社会的権力」である。いかなるものも作家の生殺与奪の権をもつものである。あるいは受賞者は、その時点から「社会的権力」をもつものである。
かっこよく振舞おうとするなら、バルムドール賞も蹴っ飛ばせばよかった。
「賞はいりません、評価いただいたことがわかっただけで結構です」と言う手もあったのではと思う。
もちろん、本当にそんなことする必要はないよと思うが、私流にかっこよく振舞うならそうするだろう。