朴裕河教授『帝国の慰安婦』の韓国二審有罪判決は何が間違いか?

二年前朴教授を招いて(於立命館大学)女性人権問題のシンポが開かれた。愁眉は朴教授の慰安婦問題への新しい言説であった。終盤日本の支援団体も韓国支援団体と協調してきた経緯から懺悔と戸惑いに満ちた。愚生は当初からこの著書を高く評価した。かねてより「政治利用」を指摘してきたためだが、韓国からこのような著作が出てくるにはもう少し時間がかるとみていた。はたして日本留学中柄谷行人の影響をうけたというだけあって、旧左翼的方法とも民族ナショナリズム運動とも違った極め近代総体の中に慰安婦問題(帝国主義問題)を位置づけている妥当なものに感じられた。
その会の終盤、質問をめぐって愚生は上野千鶴子に「お前は何様だ?!何をしてきたというんだ!」と罵倒されたりした。思想について論じている場面で、お前は実践をしたのか、間違っていたとしても実践優位にあるという左翼的実践論を繰り出す上野はもうダメだなと痛感したものだ。
その後朴教授は韓国支援団体と慰安婦数人に名誉棄損で訴えられ裁判が続いている。
一審は無罪、二審が有罪。これは二審への反論である。
原告側(国内主流派のマスコミ、文化人も含まれる)の意図は、日韓和解をテーマにしたという韓国言論界ではありえない人物を潰すこと、そのため枝葉の「事実」に論理も文脈も無視して攻撃している。日本のネトウヨと同じ手法である。
しかしテーマは、朴教授が述べているように、これは歴史書ではない。日韓の行き詰った関係を打開するための提言であり、「言説」として書かれている。一人二人のインタビューが抜けていたとしても、むしろ新たに確認された(例えば「吉田証言」の否定など)研究成果を原告側が取り込まぬままでは、現在の「言説」としては通用しなくなる。そうした方法的な認識を欠くならば、それは二審判決のような、文脈を無視、論理を曲げた極めて恣意的な偏向した判断となるだろう。
そもそもこうした学問における言説が、国家の判定になじむものではない。それを自分達が反論できないとなると国家権力を使って潰そうとすることは、日本でも対岸の火事として見ているわけにはいかない。
もちろん原因の第一は、日本の右翼と政府の民族ナショナリズムむき出しの政治至上主義的対応をし続けることである。日本の支援団体も朴教授の主旨を正確に読み取って、民族ナショナリズムに集約されない方法を見つけ出していくことが大事だろう。
朴教授の一番心配する不幸ー長引けば日韓良識ある国民の未来はお粗末なものになってしまうだろうから。

朴裕河著『帝国の慰安婦』 刑事裁判 二審判決文を読む』
シンプルに言えば、二審の判決は、「読者の読解に著者が責任を持つべきである」との判決であった。
本文
 http://www.huffingtonpost.jp/park-yuha/girl-statue_a_23271549/

1.恣意的な判決
2.歪曲と訴訟の本質
3.「事実を適示」についての認識について
4.「社会的評価を低下させる」との認識について
5.「虚偽」との認識について
6.人物の特定について
7.目的(故意)について―誰が社会的評価を落としたか
8.植民地のトラウマについて