「明日のジョー」復刻と左右言論の劣化

「明日のジョーはわれわれである。」と叫んで北朝鮮へ渡ったのは、共産同赤軍派であった。その彼ら、小西、魚本(旧姓安倍)、若林、赤木、たちへ、ジャーナリストの伊藤孝司が取材した記事を「週間現代」に掲載している。


タイトルは「よど号犯が語る40年目のあしたのジョー」。
なんでも「週間現代」で「明日のジョー」を復活連載するとのことで、恐らく宣伝目的で彼らを引っ張り出して、彼らの影響度合いのコメントを掲載したのであろう。


まあそれはそれで好きなようにしてくれたらいいが、いま当時の60年代から70年代への知的ヘゲモニーの文脈を抜きに、彼らに語らせてどれだけの意味があるのか解らない。わたしも「明日のジョー」のファンだったが、いま復刻されても別に読みたいと思わないし、それ以降の思想的問題が山のように積み残されているので、マンガ右翼じゃあるまいキチット思想的に深化しようよと思うのである。


わたしは一つの「事件」が落ち着いて思想的に捉えられるようになるには30年はかかるという常識だから、彼らの必然性と誤謬はまだまだ論議されなければならないとは思うが、語るのはひとつの覚悟がいるとおもっているので、赤軍派ネタはそれに関係する時事ネタを通じて論評する程度に留めてきた。


わたしが思うのは、運動体の中では明らかにセクトノンセクトは違っていたし、ノンセクトは必死にセクトのボルシェビズムを克服しようとしながらも、セクトのより純化したボルシェビズムを克服することができなかった。


だからといって、猪瀬直樹氏のように全共闘運動は、赤軍派連合赤軍派とは全く違うものだとして単純に切断しうるのか?というと、わたしは自信がない。それは、運動体レベルで主観的に分離できても、思想的レベルでレーニン主義を捨てていたかというとかなり曖昧だったと思う。
まあこの辺は死ぬまでには一度キチット整理したいとは思うので、今は立ち入らない。


ただあのとき確かに解っていたことは、小林秀雄が『思想と実生活』という文章で「あらゆる思想は実生活から生れる」と述べていることや、
吉本隆明の「大衆の原像」を手放さない思想こそが、上昇した知識人が唯一知識を有効ならしめることができる、それ以外の知はまやかしである、という言説だった。


厳密に言うと、確かには解っておらず、実生活を重ねてしがらみにがんじがらめになった年齢に達してひしひしと解ったというべきか。


連休中のいろいろの論考を読めたので、ちょっと上記の件に触れたのだが、他に眼を引いたのは右派が劣化してボロボロになりとうとう「諸君」も休刊に追い込まれたことだ。


「イロニーとしての保守」を掲げる山崎行太郎氏や良質な保守言論人は一様に最近の「諸君」はひどかったと、休刊を歓迎する発言があった。


左派も劣化が激しいのに、右派もかいなとため息がでる。


ネットを回遊しながら、小浜逸郎氏の次のような言葉がわたしの中で鳴り続けた。

原則固執は反体制思想の絶対平和主義と同じで、その固定点で権力批判やマスコミ批判をしていることは、実はけっこう楽なことなのである。

すなわち、

例えば、「ひとりの人間を救う地点に立てられている」(吉本隆明)思想原則(法的モダニズムの純粋培養としてのモラル)なるものが、もはやポスト近代社会が示しはじめたグロテスクぶりに対して役に立たないどころか、ときには普通の「ひとりのあなた」を守ることに背反するような論理に結びついてしまうことさえある。
(中略)
麻原彰晃」と「あなた」をあくまで等価な個として扱う近代社会の原則そのものが、現実の奇怪さについていけなくなっているからだ。


一見リベラルな言説なようでいて、実に珍妙な結論とそれを持ち上げるメディアの奇怪さに辟易する連休でもあった。