LEC大学破綻、詐欺も同然

いつかいつかと待ちに待ちましたが、とうとうLEC大学が学生募集停止になりました。
何でも市場原理導入、初の株式会社の大学。

第一期大阪校入学をしたら、カリキュラムはまだ未定部分があり、ほとんどVTR授業。

事務局に何を聞いても曖昧、解らないことは東京本部の指示待ち。
学校の体をなしていない。その後もさまざまなトラブルで世間を騒がせてきた。


よくもこんないい加減な学校?を大学の要件を満たしていると認定したものだ。文科省はどこをみて認可したのだろうか?あまりにも杜撰な認可だと思う。


そもそも大学における学問が、LECが売り物にしたような功利主義的な実利ノウハウだと摺り返られて、専門学校化し始めたことが間違いの因ではないのか?


皮肉なのは、もともとのLECは企業経営スタッフや権力維持スタッフへの資格試験勉強を教え、それを経営陣は自らの学校運営に応用したはずである。
それが見事に外れ、自らの経営能力のないことを天下に晒した。


ここに露呈した本質的問題は、教育や大学という圏域には市場原理はそのままあてはめることができないということである。
企業や商品と同様な、市場原理によって学生が集まるという錯覚は、教育の本質論から逸脱した誤認である。


鶴見俊輔が、今の文科省は教育をスロットマシンだと思っていると語っていたが、いくら投資すれば自動的に投資以上のリターンがあるなどと単純な発想でいくはずがないのだ。そもそも投資以上のリターンはいかなる基準で決めるのか?人間の生産(教育)は、答えのある問題を解けるという能力ばかりではなく、窮地に答えの決められていない回答を創造する能力を育まなければ教育ではないだろう。そうすると、もともと教育投資にたいするリターンなどというものは、測る基準自体が単純に設定不可能だと思った方がいいのだ。


小浜逸郎は、学問=思想についてこんなふうにいっている。

思想とは、おそらくこの不安と焦燥の蓄積(家を出て途中で鍵をかけ忘れたのではないか、戻ろうかこのまま目的地へ行こうかという不安と迷いの状態−それが続くと不安と焦燥にかられる)と共に発生した「考え」のことなのであって、いかに目的地にうまくたどり着くかという単純な実用性に密着した「考え」とは違うのである。


また約束のことなどより戸締りの方が絶対的に大事だからただちに取って返すという「考え」とも違うのだ。


現代思想の困った人たち」は「思想」というものを、どこかでこのどちらかの「考え」に似たもののように思い違いをしている。
約束が大事か、戸締りの確認が大事か、どちらかを選べという決断に素早く身を寄せることが「思想的に考える」ことだと信じているのだ。


迷いと焦燥の現場で考えあぐねた結果、いずれにせよ人は結局、自分のつま先を目的地か家路かにしぶしぶ向けざるをえないだろう。しかしそれまでの長い逡巡の過程に寄り添うのが思想なのである。


−『現代思想の困った人たち』より−

とりあえず、大学が学問を探求する場であるなら、学生に短兵急な結果を要求してはいけない。会計士合格率何パーセントなどというのは、専門学校でいいのである。


なお鷲田小弥太が、論文も著作もろくに出さないグータラ教師が多くて困る、ノルマがきつくなったといっても2、3年に一冊ぐらいのペースで著作を出せないようなやつは失格だ、とぼやいておりましたが、それはまた大学における研究者とは何かという各論で、大学人自身が論議すべき問題だ。