■「TVタックル」金慶珠(キム・キョンジャ)はファシストか−検察審査会問題


俗悪番組「TVタックル」で、小沢と検察審査会問題がわずかであるが論議されていた。

東海大准教授金慶珠は、場末のホステスみたいな顔をして、舌鋒鋭いが内容のないマスコミに洗脳された恐ろしいことを言い放っていた。

検察審査会は、裁判へ市民感情を取り込んでいこうという民主的な方向を求めているのだから、小沢はそのまま受けて裁判へ臨んで主張すればいいのよ、と訳知り顔で言い放った。

原口議員が、反論し、金さんは審査会法を読んだことありますか、知っていますかと問いただすと、小ばかにしたように、知ってますよーわたしだって勉強しましたよ、と言い返していたが本当に勉強したのか。

もし勉強して、その程度のことを平然と言うなら余程頭が悪いとしかいいようがない。

東大では日韓語の比較のようなことで博士号とっているらしいが、社会科学や法律に何処まで学究を極めたのか疑問である。

市民感情を組み込んでいくことが民主主義だという、このメディア的ステロタイプの言説は、学者とは思えない。


検審会の問題は、偏に法治を徹底することである。

韓国や中国のような国家権力によって、国民の人権をどうにでもできることに慣れてしまった国民には理解できないだろう。

だから金などは、法治主義ということ自体の思想がないのである。
学者だから何でも理解していて正しいことを言うなどというのは幻想である。
学者こそ、専門外のことはアホなのだ。

1.検察審査会の設置主旨は、検察自体の仕事のチェックであり、市民感情で、証拠調べもなしに、検察の訴追以外の案件を勝手に引っ張って起訴してもいいということではない。

それは一昨日、検察審査会を検討設置した人たちが、主旨に反するとして今回の第五検審会の決定は違反だと声明をだしている。

この論点が曖昧になってしまっている。
法治主義は、起訴手続きから罪刑を予め万民が認識できるように一切を決めておき、法の下での平等を期すという考えである。

民主主義であるとは、その手続きと運用と被疑者の人権保護が徹底していることを言うのである。

その意味で、金慶珠は全く間違っている。

2.検審会は、起訴権をもった第二検察庁になった。
検審会が、独自の案件を起訴できるなら、それは検察と同じ起訴権を持ったことになる。

だとするなら、検審会は、事案の調査、証拠調べ、被疑者の弁明意見書をきちっと受けて、通常の検察と同様な審議をしなければならない。

しかし、今回、検察側が事件内容と起訴状の説明を審議委員にしただけで、小沢側の弁明は一切受け付けていない。
検察の一方的な説明だけである。

こういう不公平がまかり通ったのは、もともと検察の起訴事項だけを対象に不起訴が妥当かどうかだったかを審査するという主旨で検審会は設立されたたにもかかわらず、実質的な検察の起訴権を持たせ、予想外のことを第5検審会がしてしまったからなのだ。

罪刑法定主義が常識として身についていない韓国社会と同様の感覚で、金慶珠刑事訴訟法をも無視したことを平然と述べている。

市民感情をもちだせばなんでもありなら、実定法主義は完全な空文と化すのだ。民主制度の根幹を腐らせる。

今回の小沢事件の根本原因が、単式簿記での会計処理の曖昧さにあった。

慣例的に報告側に許容されていたものを突然小沢にだけ嫌疑をかけたということが原因であるから、なおさら大問題にしておかなければならないのである。つまり法の下の平等に反するのである。

金は人権感覚の後進国公準を以って日本の先進性を後退させようとする愚を犯している。

その金に、御用評論家三宅が唱和しているのだから、三宅も所詮特高時代の人権感覚から進歩が止まっている。御し難い連中である。

この件は原口議員が全く正しかった。

何度もしつこくこの問題を取り上げるのは、やはり時代というものは、ある国民のもつ空気が、時代のターニングポイントを作っていくという真理があるからだ。

それは歴史上、国民が悪い方向へ引っ張られていく場合に、当の国民がきずかずに雰囲気を作ってしまっている場合が多々あるのである。

戦前の弱腰外交に怒った市民が、日比谷公会堂を焼き討ちしたように、ファシズムが上からと下からが合体して本格的に流れ始める起点になったように、正義だと思って行なう集団催眠行為が、とんでもない方向へ歴史を曲げて行くのである。

このとき学者もメディアも弱腰外交をさんざ煽った。学者の機能を果たしていないのである。

この日比谷焼き討ちは市民が自発的に起こした事件だったから民主的だとでも金慶珠はいうのだろうか。

或いは本格的に軍部が動き始めた事件、ロンドン海軍軍縮会議の結果を不服として市民(右翼青年)が浜口首相を襲撃したことも、当時の市民感情をぶつけたから民主的だったとでも言うのだろうか。

市民感情がいつも正義を代弁していれば、政治も歴史も楽なものだ。学者なんか要らないだろう。「知」などは豚に食わせてやればいいのだ。

学者の劣化が激しいが、TVなどに出てくる学者は信用しないことが、市民の自己防衛だと心得るといい。

ただ小沢は、法的過程は徹底的に争って、主張すればいいと思う。

しかし、政治過程では、美学は一旦横に置いて、表層を浮遊し、「ファスト政治化」した国民にはそれなりの説明と切り抜け方をしないと、政治的に潰されかねないということを肝に銘じないと手遅れになる。

それにしても子分がみすぼらしい。有能な子飼いをもてないのは小沢自身の責任でもあるわけだ。それは小沢が本当の政治家だといわれる美点とコインの裏表で、手法も含めて古い政治家だといわれる要素を持ってしまっていることは否めない。

わたしは、その古い(本当の)政治家としての小沢を買うのであるが、今のエンターテイメント期待のB層には馴染まない。
日本政治の悲劇といってよい。