■三上治氏の「検察審査会による小沢一郎の強制起訴問題をめぐって」論考

小生の小沢事件への関心と執着は、再三述べているように小沢を無条件に支持することではない。
日本の近代の政党政治の帰趨と、権力の国民コントロールの可能性の問題としてである。

その視点から、以前明治以降の政党政治の歴史的問題と、「政治と金」キャンペーンによって軍部とマスコミが政党政治を潰しファシズムを招来させた事実をふまえ、日本政治のアポリアを暴き出した三上治氏の高く評価された論考をここでも紹介した。*1

再び氏の小沢事件の直近の論考が入手できたのでの、紹介する。

なお、三上氏は長い政治運動の経験から、エセ市民主義者や官製知識人(脱構築派)が、新自由主義に絡め取られていく中で、そうした表層から離れて、小沢事件を徹底的に市民社会と国家権力論として把握しようとする。従って、日本の近代政党政治批判としての小沢支持である。
そういう意味で、筆者とは同志的であり、俗物評論家ではなく思想家としての貴重な立ち位置にあると思っている。

「政治と金」と政治家
検察審査会による小沢一郎の強制起訴問題をめぐって−

ネットでの呼び掛けで、検察批判、マスコミ批判、いうなら小沢一郎を擁護する第二弾のデモに出掛けた。急遽の呼び掛け、しかもネット上での呼び掛けにもかかわらず第二弾のデモには第一弾の600人倍の1200人が集まった。

顔見知りは少なかったが、それでも昔の友人に二人ほど会った。
一人は女性で「楽しいデモね」と笑顔で話かけられたのは印象的であった。
彼女とは前回のデモでも会ったのだが、何年ぶりかのデモ参加だったのだろう、と思えた。

集会は非党派的な人たちで準備され展開されていったが、僕の印象はよかった。共産党社民党も言うに及ばず、新左翼諸党派もこういう動きに対する関心は、彼らの意識の埒外なのだろうか、ていう思いが頭をよぎった。

小沢の「政治と金」をめぐる問題なんて、所詮ブルジョワ政党の内部腐敗の問題か、ダーティな政治(金権政治)の問題ととらえる意識が彼らの思想性を支配しているのだろう。

「政治と金」という言葉は、マスコミが作り上げた一種の流行語であって、「政治と金」疑惑は、金で汚れた政治というイメージを小沢一郎に重ね合わせて付着させるのに成功したが、現実の存在している政治の中におけるカネの問題が問われているわけではない。

つまり、今の日本の議会制民主主の政治活動の中で、現実のカネの役割とその具体的な流れや金権体質といわれるような政党政治の問題が問われているわけではない。

まして「政治とカネ」にまつわる現実問題としての政党助成金の使われ方や個々の政治家の政治資金収支報告書をめぐってより厳しい法規制を目指しているわけでもない。

「政治とカネ」という言葉のイメージや、それに付着する「クリーンな政治」というのは、観念的なお題目の類のようなもので、口あたりのよい政治的言葉であり、「環境(地球)にやさしい政治」という類と同類のものである。

こうしたことが政治的お題目として流通しているだけなら問題はないのだが、官僚主導の国家権力が特定の政治家を排除するために、「政治とカネ」疑惑という策謀を弄して陥れようとしていることが問題なのである。

また自民党他の野党や政治家が政争の具として使っていることが愚かで危険ことなのである。
そしてこのことは日本の政治に潜む歴史的な宿業と言ってもよいのだ。

具体的に言えば、政権交代の推進力であった民主党の代表であり首相であった鳩山由紀夫や幹事長であった小沢一郎が「政治資金規正法」疑惑ということで政治的に追い詰められてきたことである。

小沢一郎検察審査会(この審査会の内実はまったく公表されない)の議決による強制起訴の矢面に立たされている。

こういう形態での政治家殺しを僕らはかつてロッキード事件による田中角栄の抹殺として見てきた。

田中角栄の弟子筋とみなされる小沢一郎はこれを跳ね返せるのか。僕はここに一政治家の命運をみるだけでなく、世界政治のなかで日本における政治と権力の行方を見てみたいと思っている。

小沢一郎やその周辺が西松建設問題で政治資金規正法の疑惑に襲われた時、誰しもがひのことに唐突な印象を持った。それは政権交代のかかった選挙を目前にしてのことだったからだ。そして、民主党の画期的勝利という政権交代以降には鳩山由紀夫小沢一郎政治資金規正法の嫌疑がかけられた。

こうした動きに対しては、当初から何らかの政治的意図が絡んだ事件であるという見解と、これは政治的な疑獄事件であるという見解があった。

この事件を扱っていた検察当局や当時の政府(自公連立政権)は疑獄事件としてきたし、概ね多くのマスメディアはそうした見解に立ってきた。

 要するに、これは小沢一郎の政治資金獲得や支出に伴う疑惑の事件であり、彼の政治理念や行動、つまりは小沢一郎政治的主張や彼の存在の排除ではないというのだ。

これはやがて「クリーンな政治」という空疎な理念に基づく「政治とカネ」問題の象徴として小沢批判の大合唱になっていった。

自民党公明党はいうに及ばず共産党も小沢バッシングを展開したが、やがて民主党内の反小沢グループ菅直人や仙石由人、岡田克也前原誠司らの面々は党内での小沢一郎の影響力排除使った。

小沢グループは基本的に小沢の政治資金疑惑をダーティな「政治とカネ」問題、「汚い政治」問題と結びつけ、小沢一郎の政治資金疑惑に問題があるのだという立場に立ったのだ。

 コレに対して、この事件は政治資金疑惑を口実に小沢一郎の政治理念や主張*2を葬り、政治家としての小沢一郎を政界から排除することを目論むものであり、その影響力を削ぐことが狙いであるという批判があった。

本来は形式的に処理される性格の政治資金規正法事件がこれほどしつこく扱われてきたのには、背後に大きな権力の魂胆があるというとだ。

戦後保守政権が継承してきた日本の政治支配の継承を願うアメリカや国家官僚、旧支配勢力が政界からの小沢排除を狙ったものであり、これは現に目の前で進行している事態であるといえる。

この事件が小沢一郎の政界からの排除を目論んだ事件であると批判する側はどちらかと言えば少数派である。これは現在でも変わらないと思うが、検察やマスメディアへの批判はそれなりな大きくなってきてもいる。

僕は検察やマスメディアの源蔵に政治的意図を読み取り、その背後の政治力を批判し続けることと同時に、彼らが一枚看板のように掲げている「クリーンな政治」という空疎な観念の欺瞞性をあらゆる場面をとえして批判しなければならないと考えている。

検察審査会の正義感やマスメディアの正義感は、空疎な理念に基づいているとはいえ、一定の大衆への浸透力を持っている。
善意で敷き詰められた道は地獄へ通じている。とはよく言われることだが、「クリーンな政治」を掲げて小沢一郎を排除し、それと引き換えに権力の座を得た菅直人や仙石由人らが演じているのは、地獄への道以外ではあり得ない。「政治とカネ」という問題にもう少し立ち入ってみよう。

 これは小沢一郎が「政治資金規正法違反」容疑で検察に嫌疑をかけられたとき、マスメディアがどういう報道をしてきたかを想起してもらえばいいのだが、マスメディアは初めから小沢一郎を「政治とカネ」疑惑の対象としてダーティーな政治家であるのような風評をことさら大げさに喧伝してきた。
要するに、小沢一郎の政治家としての理念や主張、政治力の内実を問うのではなく、金力によるものとしてみる偏見を助長し、そのように故意に作られたイメージを拡大再生産してきたということである。
立花隆という評論家の言動はその典型であった。

 これは小沢一郎の政治的師であった田中角栄金権政治家、金の力で政治力を得た政治家とみなされてきたことと同じである。
これは田中角栄という政治家り見識や構想力においてではなく、金力というダーティーなイメージで評価することであるが、こうした先入観を小沢一郎にも当てはめてきたのである。

確かに、彼は政治資金の収得(集め方)や支出(使い方)で抜群の能力を有してきたし、彼に敵対する政治家たちが恐れてきたところでもあろう。
しかし、彼の政治力をこの点にだけ集中して評価するのはその像を歪めることになるし、間違ったイメージを流布することになる。
結果として、政治的排除に手を貸すことにになる。

 これは小沢一郎という、あるいは田中角栄という個性的政治家の評価を好き嫌いという情念にすり替えてしまうことであり、作為的な情報操作に乗っかって一方的な政治的排除に加担する結果になる。これは「政治とカネ」についての政治的見識ということになる。

要するに検察やメディアは「政治とカネ」についての現実的で、しかも深い認識を持っていないのであり、そこで発生する問題の理解力を持っているわけではない。だから汚たない政治(きれいな政治)という観念を安易に使うだけである。具体的にその解決策を示すこともない。

現実に立たないで御題目のように語るだけでは実際の解決策などでてきようがないのである。

 少しでも社会活動に足を踏み入れた経験のある人は、「カネ」の問題に直面する。これにはいわいわのケースがあるのだが、基本的に言えば、政治活動は経済活動と違って営利を本質としていないので利益追求を目的として活動するわけではない。

この点では宗教活動やボランティア活動に似ている。しかし、現実の政治活動には多大な資金を必要とする。ここでは議会制民主主義下の政党政治の活動を主眼においているが、政治党派が党員数(議員数割り)と国勢選挙の得票数に応じて獲得した得票数割によって交付される政党助成金と企業や個人という市民社会からの政治献金によって政治活動費が賄われていると言われるが、果たしてそうした資金だけで今の日本の政治活動が行われているのだろうか。

そうした政治活動における「政治とカネ」問題は、政治活動が経済的な利潤の獲得を目的としていないにもかかわらず、その活動には多大な資金を必要とするという、バラドキシカルな二律背反として現象し、政党や政治家を悩ます。
幻想としての共同体の政(まつりごと)にはこうした相矛盾する要素が権力闘争と相まって沈潜している。

政党や政治家にとっては、政治的見識や構想力とその実践力が本質的なことであり、政治資金の獲得や利権は本質的なことではないにもかかわらず最重要事となる。政治の本質的行為と政治資金獲得活動の間には様々な相矛盾する事柄が発生する。

エスとユダの関係にも喩えられるこの両者の関係は、人類の有史以来連綿と続いてきた。しかし、政治資金の獲得や利権をめぐる能力はどれほど重要事に見えても政治的見識や構想力以上のことでは決してあり得ないのだが、現実の政党政治において政治資金は重要な役割を占めているし、その獲得能力や利権の確保は重要な政治能力となる。

 政党助成金という公的資金を得ている以上、政治資金の獲得(取得)と使い方(支出)は透明であることが望ましい。
しかし現実はそのようなことはありえない。利潤追求組織である民間企業の税務申告の場合でも、税務当局との解釈の違いがよく問題になるが、悪質な故意の脱税もままあるとはいえ、殆どは節税対策の行き過ぎである。

政治党派の場合は、政府の官邸機密費に見られるように政党間の駆け引きや内密な交渉や偵察など公表できない性格の支出など政治資金の獲得や使い方は藪の中である。
政治献金の提供者も受容者もそれを公然としたものとして扱うことを嫌う風習の中でしか育たなかった。

そうした中で日本の政党政治の政治資金の流れを見てみると、天皇親政の明治維新政府の当初からの矛盾の坩堝に置かれてきた。
政党政治は近代市民社会の意思(利害)を背景にして登場してくるのだから、個人献金であれ企業献金であれ、団体献金であれ、市民社会によって支えられる構造でなければならない。

しかし日本の政党政治は、薩長土肥のいかがわしい藩閥政府と国家官僚が一体化した形で指導、育成した保守政党によって継承されてきたが故に、本来、市民社会によって支えられるべき政治基盤は脆弱のままに、まさに近代化がねじれたままで成長、発展することはなかった。

 日本の政党政治は、近代市民社会が未成熟のまま当初から矛盾に満ちた環境の中で存在していたが、この矛盾は個人資産によって補うか、頻発した疑獄事件に象徴されるように、政財官の汚職にまみれた政治資金の獲得に手を染めざるを得なかった。

政治資金の能力が過大に評価され、政治理念や政治信条とは名ばかりの私利私欲にまみれた政治家が二世、三世と地盤を継承して利権を温存してゆく悪しき風習が跡を絶たないまま政治基盤が温存されてきた。
こうした歴史的伝統の中で日本の政党政治は存続してきたのであり、国家権力(官僚)と同一化した基盤に立つ政党以外は権力を獲得しえない理由でもあった。

 日本の政党政治政権交代が困難であったことは、政官財の癒着によってしか政治資金を獲得できなかったためでもある。
政党政治が国家と一体化した官僚にによって育成され、また官僚の自立を阻止する有力な武器が政治資金の問題であった。官僚は利害の一体化した政党に政治資金の基盤を提供し、抑圧する手段としてきたのである。

戦後保守政治の継承を担った自民党という政党の系列において岸信介に連なる系譜と田中角栄に連なる系譜の政治資金をめぐる疑惑事件の差異はこれを示している。

 田中角栄が政治資金を自らの事業で独自に創り出さざるを得なかったのは、伝統的保守政党の歴史的に形作られた基盤の中で、伝統的保守性に楔を打ち込む「自己の立ち位置」を貫き通す政治信念と構想力を具現しようとしたからではなかったのかと思う。

 近代市民社会の政治基盤が確立する過渡期において政党政治は政治家の個人的資質と資金能力によるしかない。
そこでは可能な限り自由でなければならない。そうでなければ政党政治の政治資金は、現在のような政党助成金に頼るということになるが、これは決していいことではない。

市民社会に基盤を持ち、市民社会の意思を代表する政党政治が政治資金において国家に依存することは官僚主導の政党政治の枠組みに立ち戻ることになるだけだからである。

 小沢一郎を政界から政治的に排除、抹殺しようと狂奔したのは戦後保守政党の背後で権力支配の構造を掌握し続けてきた官僚機構と、その機構と構造をとおしてコントロールしてきたアメリカに内在する反オバマ政権の保守潮流である。

それゆえに小沢一郎をめぐる政治闘争からは眼を離すわけには行かないのである。(完)
(批評社『Nichi』no.26,2011年1月1日初版第1刷発行)

(註)この論考は三上治氏本人の了解を得て掲載しております。
(参考)
[1]三上治「政敵追い落としと『政治と金』」
http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=201009071232352

[2]三上治「12月8日と『第三の敗戦への端緒(11)〜(1)』」
http://chikyuza.net/n/archives/5619

[3]三上治「なし崩し的な政策転換に歯止めの政治戦略を」
  http://chikyuza.net/n/archives/4683

*1:三上治『小雨降って地崩れず』拙著ブログ「句の無限遠点」http://d.hatena.ne.jp/haigujin/20090826/1251294534

*2:小沢一郎HP「私の政治理念」http://www.ozawa-ichiro.jp/policy/run_for_idea_0609.htm