さて、各市町村の使途が注目されます。
かつてのふるさと創生基金のようなバカげた使い方を心配します。
首長と議会と法律が変わらないまま、同じ失敗をしない保証はどこにあるのでしょうか。
それは市民の企画参加しか無いでしょう。
漏れ伝わるところでは、仙谷官房長官が「運動はしたが統治はしたことがなかった」と呟いたらしいが、誠に正直な告白だろう。
つまり、野党ないし批判勢力は、正しい経営にタッチするのを避けて、人の失敗や不全を指摘したり追求するだけだ。
その役割も大事だが、地方自治がこれだけグタグタになった時代には、これではもう回らない。その意味で名古屋市でおきている改革は貴重だ。
わたしの体験では、自民党議員にはJC出身者がいたり地域の経営者などがいて、人と組織の経営経験を積んでいる。
また、仙谷のような救援対策委員会などの学生運動活動家の周辺でウロウロしていた者は別にして、活動家も人と組織の籠絡と調整の訓練を積むため、社会へ出て立派な経営の切り盛りをしている人物が多い。
つまり、責任から逃げず小さいながらも組織改革をなしとげたり、創業したりしているケースが多々みられる。
私たちは、脱イデオロギー時代の今、「市民」が菅総理の時代のような唯の「対抗」の表象記号ではなく、「経営」を担う実体へ成長する必要があるのではないか。
この交付金の使途に失敗すれば、中央官僚がほくそ笑み、天下り官僚天国は続くだろう。
【追記】
〇〇さん、風邪をひいたとか、大事にしてください。無理なさらないように。
このようなリアリズムに徹したことを書きますと、途端に読者が引いています。いいねマークは〇〇さんくらいになります。苦笑
ネットの批判も不満も、ひとつの消費の循環に組み込まれて、支配側のガス抜きにされて終わっているのでしょう。
大衆が経営主体として、自己形成されない限り、対抗運動はあり得ても、管理は官僚にゆだねられ、支配ー被支配の関係は克服できないでしょう。
文化資本が支配層に有利に配分されている中で、それは大変な努力が必要ですが、リアルに認識しておく必要があります。
私たちは、スウェーデンの様に、政治家は普通の市民が専門の仕事と掛け持ちで携わる、自主管理イコール自治の形成ができない民族なのでしょうか。
マルクスの云うアジア的統治の残滓を、いつになったら克服できるのでしょうか。