犠牲者が約20,000人。いまだ4000人以上が遺体が見つからず行方不明だというのだから哀しい。
それにしても一言で20,000人というが、アフガニスタンでの米軍の10年間の戦死者が1600人だから、わずか1時間足らずの津波で失った命を思うとその凄まじさが改めて解ろうというものだ。
この半年、復興はほとんど進んでいない。原因は平時の法律が緊急時には不適切であって、それを克服する政府の特別立法が進まず、政治がそれを主導できていない結果だといわれる。
菅内閣の原発事故と東電対策に手を取られ、経営のまずさが不作為の怠慢として東北復興プランを遅らせてきたことは誰の目にも明らかだった。
また、霞ヶ関官僚が発した本音が、国民ではなく国家益(支配層益)を優先しているため、ますます被災地支援に具体的に施策が浸透しない。
驚くべき官僚の発言がある。
「東北地方が今回の津波を受けたといっても、そもそも東北地方が日本のGDPに占める割合はわずか四.五%弱。基本的には限界集落が多い沿岸部を中心に被害にあったということを考えると、GDPでは0.数%程度しか被害はない。そんな場所に今後数百兆円も金をつぎ込んでまで元に戻す必要があるのか」(「思想地図β」津田大介レポートP70)。
恐ろしい棄民の思想である。
津田は経済至上主義として批判しているが、官僚の思考は経済を国民が担っているという基本中の基本を欠落している。
この大震災は、日本という国家、市民社会、個人の関係性、これらがどのような原理でつながっていたのか、すなわち日本という社会の共同性はどのようなもので、どのような質であったのかが問われているのである。
国家(政府)が国民を労働生産性のただの員数としてしかみていないのか、あるいは国民のひとりひとりを共同の幻想性を共有するかけがえのないひとりとして認識しているのか、それが端的に問われているといえる。
官僚のいうことの延長線上には棄民が待っており、明治以降海外移民や満州開拓団として何度も貧しい国民を捨て去ったこの国の病理的遺伝子が全く克服されていないことになる。
そのような国の姿を見せられた国民は、国を信頼しなくなるだろうし、国民が本気で国をみすてるときがくるだろう。忍耐強い日本人のことだから、そこまでいかないにしてもモラルハザードを起こし、今までの日本人の美質を失うことだってありうるだろう。
この国の復興政策の遅れは、現実の被災者たちを、マスコミや俗流文化人の言うこととは全く反対の現実に突き落としている。
マスコミや俗流文化人は、日本人の絆を見直させ一体感を持つことができた、いう言説である。
しかし、被災者に現実に進行しているのは、以下の特徴的問題である。
1.絆が裂かれた。
2.日本人が一つになったのではなく、分断され、格差にさらされている。
3.被災者被災地とその他の地域との関係性が密接であることに反比例して、被災地以外の地域の当事者意識の希薄化が激しい。
1.は、家族をも絆を毀し、分断している。
2.は、同じ被災地でも世帯や個人で、収入格差や類縁者の有無という偶然性によって格差が広がり孤独と希望の格差は拡がっている。
3.は、現代生活が、東北を不可欠としているものの、その代替性も当たり前のことであり、被災地域とその他の地域とはその困難性についての意識が隔絶のものとして横たわっている。
社会が高度化すればするほど、自然災害に付随する固有の問題といえよう。
自然災害が発生した瞬間から、被災民は社会過程として存在するため、災害が平等ではなく格差と分断の冷酷さにさらされてしまうのである。
そこを是正し、克服する機能は政治家の施策だろう。
日本の政治社会システムの弱点を、この大震災は炙り出している。
この日本的病理を国民は反省し、克服できるのだろうか?