反原発デモが日本を変える--日常に隠された国家暴力を炙り出す!

先日9.11新宿反原発デモが荒れた。、警察の暴行により12人の逮捕者をだしたようだ。
また、反原発のフランス人夫婦が右翼在特会に追い詰められ、在特会のけしかけによって警察が暴行を加えて理由もなしに不当逮捕したとのことだ。騒然としたむごたらしさはYou-Tubeにもアップされているらしく、日本人として恥ずかしいとの声があがった。

こうした大規模な国民的デモが頻繁におこなわれるのは何十年ぶりだ。しばらく日本では国民的といえるデモはなかった。
そのため参加者たちが、あまりの警察の暴行に驚き、法的根拠のない理不尽な逮捕劇に憤慨して、ネット上でも抗議の声が満ちていた。

考えれば、参加者の多くは20〜40才代なのでデモの現場がどういうものか知らない人たちでしめられていただろう。
そこで私はその稚拙な反応に苛立ちつつ、揶揄した言い方をコメントしたりしたが、少し真面目に言っておかなければわれわれの体験が生かされないと思ったので、以下のようなtweetをした。

「角材や火炎瓶使ったわけでもないのに、警察がデモに暴力をふるい逮捕者をだすのは民主主義国家ではない、という人がいる。
この言い方は角材や火炎瓶を使えば暴力を加え逮捕してもよいということだ。政治状況抜きにデモを語る愚かさ!暴力的デモは静かなデモが弾圧された不可避の結果なのだ。」

「角材・火炎瓶のデモには警察・在特会は暴力をふるっても仕方ないと言う人。デモ規制は警察側の主観で行われるのだから、デモ側の主観で警察の暴力がこの場合はよくこの場合はよくないと決められない。全てのデモへの暴力はダメだと言わない限り、国民が警察・在特会の暴力を容認することとなる。結局国民が容認。」

「角材火炎瓶を使わないデモなのに、警察の暴力は非民主的と言う人。
(暴力を)使うデモには暴力規制してもよいと言うわけだ。どのような示威行為も静かな行為が弾圧されエスカレートした結果だということが解っていない。結局その言い方は警察権力の暴力を容認することなのだ。そういう言い方で国民が容認してきた。」

この片言的発言がどれほど真意を伝えられたかわからないが、たちまちリツイートされた。

マスコミは全国で澎湃と湧き起こってくる反原発デモをしぶしぶ報道せざるをえなくなったが、それでもまだ十分ではない。
警察は、規模が拡がり、激しくなるにつれ、デモ参加者を暴徒として無関心層と切り離して暴徒の印象操作を始めた。昔と全く変わらない。デモへ参加すること自体にリスクが付きまとうのだと脅迫するやり方が、暴行を加え防御のために警官の体に触れたら公務執行妨害として逮捕。

これをめぼしいリーダー層とみられる何人かを不当逮捕して、取り調べ、背景を探り、ブラックリストを作る。

若い人たちが、左翼運動が解体してから警察が国家秩序の維持をするためには、民主主義をかなぐり捨てて暴力を行使するという公共性格の隠された姿が露出して戸惑うのも解らないではない。
しかし、「全共闘のような左翼は暴力を目的にデモをした。しかし僕らは静かになにもしていないのに、警察は暴行するのだ。民主主義の国かと疑う」という事実誤認とあまりにもナイーブな発言には、歴史の切断を感じて溜息がでる。

しかしそれでも私は若い人たちに期待している。
ツイッターなどのSNSの普及は個々人の新しい紐帯をつくる有力なツールとなっていることは間違いない。職場や労組などの組織的意見表明はもう不可能だろう。個人が共通の目的のために連絡をとりながら、組織化をはかるという携帯情報端末を利用した方法しか残されていないのだ。

この感覚は柄谷行人も同じらしく、次のようにインタビューに答えている。

原発デモが日本を変える

 3月11日の東日本大震災から、この6月11日で3か月が経過する。震災直後に起こった福島第一原発の事故を契機に、日本国内のみならず、海外でも「反原発脱原発デモ」が相次いでいる。東京においても、4月10日の高円寺デモ、24日の代々木公園のパレードと芝公園デモ、5月7日の渋谷区役所〜表参道デモとつづき、6月11日には、全国で大規模なデモが行なわれた。作家や評論家など知識人の参加者も目立つ。批評家の柄谷行人氏は、六〇年安保闘争時のデモ以来、芝公園のデモに、およそ50年ぶりに参加した。今後、この動きは、どのような方向に向かい、果たして原発廃棄は実現可能なのか。柄谷氏は、6月21日刊行の『大震災のなかで 私たちは何をすべきか』(内橋克人編、岩波新書)にも、「原発震災と日本」を寄稿している。柄谷氏に、お話をうかがった。(編集部)

  *  *  *

【柄谷】最初に言っておきたいことがあります。地震が起こり、原発災害が起こって以来、日本人が忘れてしまっていることがあります。今年の3月まで、一体何が語られていたのか。リーマンショック以後の世界資本主義の危機と、少子化高齢化による日本経済の避けがたい衰退、そして、低成長社会にどう生きるか、というようなことです。別に地震のせいで、日本経済がだめになったのではない。今後、近いうちに、世界経済の危機が必ず訪れる。それなのに、「地震からの復興とビジネスチャンス」とか言っている人たちがいる。また、「自然エネルギーへの移行」と言う人たちがいる。こういう考えの前提には、経済成長を維持し世界資本主義の中での競争を続けるという考えがあるわけです。しかし、そのように言う人たちは、少し前まで彼らが恐れていたはずのことを完全に没却している。もともと、世界経済の破綻が迫っていたのだし、まちがいなく、今後にそれが来ます。

 日本の場合、低成長社会という現実の中で、脱資本主義化を目指すという傾向が少し出てきていました。しかし、地震原発事故のせいで、日本人はそれを忘れてしまった。まるで、まだ経済成長が可能であるかのように考えている。だから、原発がやはり必要だとか、自然エネルギーに切り換えようとかいう。しかし、そもそもエネルギー使用を減らせばいいのです。原発事故によって、それを実行しやすい環境ができたと思うんですが、そうは考えない。あいかわらず、無駄なものをいろいろ作って、消費して、それで仕事を増やそうというケインズ主義的思考が残っています。地震のあと、むしろそのような論調が強くなった。もちろん、そんなものはうまく行きやしないのです。といっても、それは、地震のせいではないですよ。それは産業資本主義そのものの本性によるものですから。

 原発は、資本=国家が必死に推進してきたものです。原発について考えてみてわかったことの一つは、原発が必要であるという、その正当化の理論が日本では歴史的に著しく変わってきたということです。最初は、原子力の平和利用という名目で、核兵器に取り組むことでした。これはアメリカの案でもあり、朝鮮戦争ぐらいから始まった。このような動機は、表向き言われたことはありませんが、現在も続いている。つぎに、オイルショックの頃に、石油資源が有限であるという理由で、火力発電に代わるものとして原発の建設が進められるようになった。これもアメリカの戦略ですね。中東の産油国を抑えられなくなったので、原子力発電によって対抗しようとした、といえる。その次に出てきたのが、火力発電は炭酸ガスを出すから温暖化につながる、したがって、原発以外にはない、というキャンペーンです。実際には、原発はウラン燃料作り、原発建設、放射能の後始末などで、炭酸ガスの放出量は火力発電と違わない。だから、まったくの虚偽です。このように、原発正当化の理由がころころ変わるのは、アメリカのブッシュ政権時のイラク戦争と同じです。つまり、最初は大量破壊兵器があると言って、戦争をはじめたのに、それがないことが判明すると、イラク民主化のためだと言う。途中で理由を変えるのは、それが虚偽であること、真の動機を隠すためだということを証明するものです。原発に関しても同じです。それが必要だという理由がころころ変わるということ自体、それが虚偽である証拠です。

 ―― なるほど。

【柄谷】フクシマのあと、脱原発に踏み切った国を見ると、核兵器を持っていないところですね。ドイツやイタリアがそうです。この二カ国は日本と一緒に元枢軸国だったのです。ところが、日本はそうしない。それは、本当は、日本国家が核兵器をもつ野心があるからだと思います。韓国もそうですね。ロシアやインドは、もちろん核兵器を持っている。核兵器を持っている国、あるいはこれから作りたい国は、原発をやめないと思います。ウランを使う原子炉からは、プルトニウムが作られますからね。元々そうやって原子爆弾を作ったんだから、原子力の目的はそれ以外にはない。原子力の平和利用と言うけれど、そんなものは、あるわけがない。同じ原子力でも、トリウムを燃料として使うものがあります。『原発安全革命』(古川和男著、文春新書)という本に書かれていますが、トリウムはウランより安全かつクリーンで、小型であり、配電によるロスも少ないという。しかし、それがわかっていても採用しないと思います。そこからはプルトニウムができない、つまり、核兵器が作れないからです。

 原発は経済合理的に考えると成り立たない。今ある核廃棄物を片付けるだけで、どれだけのお金がかかるのか。でも、経済的に見て非合理的なことをやるのが、国家なのです。具体的には、軍ですね。軍は常に敵のことを考えているので、敵国に核兵器があれば、核兵器を持つほかない。持たないなら、持っている国に頼らなければならない。できるかぎり自分たちで核兵器を作り所有したいという国家意志が出てきます。そこに経済的な損得計算はありません。そんなものは不経済に決まっていますが、国家はやらざるをえない。もちろん、軍需産業には利益がありますよ。アメリカの軍需産業は戦争を待望している。日本でも同じです。三菱はいうまでもなく、東芝や日立にしても、軍需産業であって、原発建設はその一環です。他国にも原発を売り込んでいますね。日本で原発をやめたら、外国に売ることもできなくなるから困る。だから原発を止めることは許しがたい。したがって、原発を止めるということは、もっと根本的に、軍備の放棄、戦争の放棄ということになっていく問題だと思います。

 ―― 4月24日のデモについて、おうかがいします。柄谷さんは、ご自身が講師を務める市民講座「長池講義」の公式サイトで、「私は、現状において、反原発のデモを拡大していくことが最重要であると考えます」と述べ、反原発デモへの参加を呼びかけられました。実際に芝公園と、その次の渋谷区役所前のデモに参加された。街頭デモへの参加は50年ぶりのことであり、なぜ柄谷さんをこの運動に向かわせたのか、お聞かせいただけますか。

【柄谷】デモに行くということについては、かなり以前から議論していたと思います。数年前から、何カ所かで、「なぜデモをしないのか」という講演をしたのです。『柄谷行人 政治を語る』(図書新聞刊)の中でも、その話をしています。なぜ日本でデモがなくなってしまったのか。そのことについても考察しています。それと関連する話ですが、3月11日以降に、わかってきたことがあります。実際は、1980年代には日本に大規模な原発反対の運動があったのです。それなのに、なぜ今日まで、54基もの原発が作られるに至ったのか。そのことと、なぜデモがなくなったのかということは、平行しており、別の話ではないということです。

 現在言われている反原発の議論は、1980年代に既に全部言われていることですね。事実、多くの本が復刻されて読まれている。今も完全に通用するのです。むしろ驚くべきことは、あの時に言われていた原発の危険性、技術的な欠陥、それらが未だに何一つ解決されていないということです。原発はまた、危険であるがゆえに避けられない過酷な労働を伴います。半奴隷的と言ってもいい労働が、ずっとつづけられてきた。今度の事故で、あらためてそのことに気づかされました。原発に反対すべき理由は、今度の事故で新たに発見されたのではない。それは1950年代においてはっきりしていたのです。しかし、それなら、なぜ原発建設を放置してしまったのか。特に強制があったわけでもないのに、原発に反対することができなくなるような状態があったのです。デモについても、同じことです。デモは別に禁止されてもいないのに、できなくなっていた。では、この状態を突破するには、どうすればいいか。そのことを、僕は考えていました。そこで、デモについていろいろ考え発言したのですが、結局、まず自分がデモをやるほかないんですよ。なぜデモをやらないのかというような「評論」を言ってたってしょうがない。それでは、いつまで経っても、デモがはじまらない。デモが起こったことがニュースになること自体、おかしいと思う。だけど、それをおかしいというためには、現に自分がデモに行くしかない、と思った。

 ―― 参加されて、どんな感想をお持ちになりましたか。

【柄谷】気持よかったですね。参加した人もこれまで、デモについての固定観念を持っていたと思うのですが、来てみたら全然違う、と感じたんじゃないですか。子供連れで来ている人がかなりいました。僕は安保の時に何度もデモに行きましたが、今回のデモは、あの時とは違いますね。しかし、僕がデモに50年ぶりに参加したというのは、日本において、ということです。実は、アメリカに住んでいた頃は、何度かデモに行ってるんですよ。といっても、わざわざ出掛けて行ったのではない。たとえば、10万人のデモが家の前を通っていて、そこを通り抜けないと、カフェにも行けない。だから、ついでにデモに参加したわけです。むろん、イラク戦争反対のデモだったからですが。今回の日本のデモは、そのときのデモに似ています。

 ―― 安保の時とは違うと言われましたが、どのような違いがあったのでしょうか。

【柄谷】1960年のころは、基本的に労働組合が中心で、その先端に学生のデモがあったのです。「全学連」のデモも、最後の半年ぐらいは違いますが、それまでは、国民共闘会議のなかの一集団で、長いデモの先頭にいたんですね。何十万人の参加者の中の、1万か2万ぐらいが学生だった。

 ―― 一緒にやっていたわけですか?

【柄谷】そうですね。ただし、1960年以後、学生と労働者との断絶が続きました。1960年代末の、いわゆる全共闘のころは、学生のデモは労働運動とはつながりがほとんどなかった。その分、デモは過激なものになって、普通の市民は参加できない。だから、いよいよ断絶化する。したがって、1960年以後は、大規模な国民的デモはなかった、といっていいと思います。現在は、大学の学生自治会はないし、労働組合も弱い。早い話が、東電の労組は原発支持ですね。労働組合に支持された民主党も、原発支持です。こんな連中がデモをやるはずがない。だから、現在のデモは、固定した組織に属さない個人が集まったアソシエーションによって行われています。たとえば、僕ら(長池評議会のメンバー)は50人ほどですが、その種の小さいグループが、いっぱいあると思います。今後も、若い人たちがデモをやるならば、僕は一緒に動きます。

 ―― 1991年の湾岸戦争の時、日本の参戦に反対する「文学者の集会」を、柄谷さんは開かれました。その時のことを振り返って、「僕だけなら何もしなかった」「(自分は)受身である場合が多い」とおっしゃっています(『政治を語る』)。今回は自ら呼びかけを行ない、今後もそれはつづけていくと発言されています。

【柄谷】僕は他の人たちがやっているデモに相乗りしているだけであって、自分ではじめたのではない。その意味で受け身です。しかし、それは問題ではない。僕は、運動の中心にならなければならないとは、まったく考えていない。デモがあれば、そこに行けばいい。ただ、たとえデモがあったとしても、ひとりではなかなか参加できないものなんですよ。それなりに連合していないとデモはできないと思います。だからアソシエーションが必要だと言っているわけです。

 ――『政治を語る』の中では、2000年にNAMをはじめた時のことを振り返って、次のように言われています。「この時期に運動をはじめたのは、理論的なこともそうですが、現実に危機感があったからですね。1990年代に、日本で「新自由主義」化が進行した。いつでも戦争ができる体制ができあがっていた。僕は、『批評空間』をやっている間、それに抵抗しようとしましたが、無力でした。たんなる批評ではだめだと思うようになった。だから、社会運動を開始しようと思った」。その時の思いと、今回の行動は繋がっていると考えてもよろしいのでしょうか。NAMの正式名称(New Associationist Movement)が示す通り、当時から、アソシエーションの必要性を強調されていました。

【柄谷】今もそれは同じです。当時、アソシエーションというとき、協同組合や地域通貨といったもの、つまり、非資本主義的な経済の創造を考えていたのですが、それはむろん、今後にますます必要になると思います。特に経済的な危機が来たら。20世紀末に、それまでの「批評」ではだめだと思ったのは、ソ連崩壊以後の世界が根本的に変わってきたと感じたからです。それまでの「批評」あるいは「現代思想」というのは、米ソの冷戦構造の下に出てきたものですね。簡単にいえば、米ソによる二項対立的世界を脱構築する、というようなものです。実際には何もしないし、できない。米ソのどちらをも批判していれば、何もしないのに、何かやっているという気になれた。しかし、ソ連が崩壊したことで、このような世界は崩壊しました。米ソの冷戦構造が終わったことを端的に示したのが、湾岸戦争ですね。そのとき、僕は、今までのようなスタンスはもう通用しないと思った。だから、湾岸戦争の時に、文学者を集めた反戦集会をやったのです。しかし、それに対して僕を批判した連中が大勢いましたね。もと全共闘というような人たちです。たぶん、かつてはデモをやっていた連中が、集会やデモを抑圧するようになっていたのです。しかし、現在、若い人たちは、デモを否定的に見るような圧力をもう知らないでしょう。それはいいと思いますね。

 ―― 確かに今回、特に20代から30代の若い人たちが、積極的にデモに参加している印象があります。

【柄谷】やはり、大きな災害があったからだと思いますね。非日常的な経験をすることで、新しい自分なり、新しい人間の生き方が出てきたんでしょう。これまでの普段の生活の中では、隠蔽されていたものが出てきたんだと思います。資本主義経済というのは、本当にあらゆるところに浸透していて、小さな子どもの生き方まで規定していますからね。最近聞いて、面白いなと思ったものがあります。「就活嫌だ」というデモがあるらしい。それはいいと思う。当たり前の話で、大学に入学して間もなく就職活動を始めなきゃならないなんて、嫌にきまっていますよ。こんなものが大学ですか。今の大学に学問などないということは、原子力関係の研究者の様子を見れば、わかります。だから、嫌だといえばいい。デモをすればいい。

 ―― 柄谷さんは『政治を語る』の中で、繰り返し、デモの必要性を説かれていますが、その意味で、「希望の芽」のようなものが、今出はじめたと思われますか。

【柄谷】そう思います。3月11日以後、日本の政治的風土も少し変わった気がしますね。たとえば「国民主権」という言葉があります。国民主権は、絶対王制のように王が主権者である状態をくつがえして出てきたものです。しかし、主権者である国民とは何か、というと難しいのです。議会制(代表制)民主主義において、国民とはどういう存在なのか。選挙があって、国民は投票する。その意味で、国民の意志が反映される。しかし、それは、世論調査やテレビの視聴率みたいなものです。実際、一か月も経てば、人々の気持はまた変わっている。要するに、「国民」は統計的存在でしかない。各人はそのような「国民」の決定に従うほかない。いいかえれば、そのようにして選ばれた代行者に従うほかない。そして事実上は、国家機構(官僚)に従うことになる。こんなシステムでは、ひとりひとりの個人は主権者ではありえない。誰か代行者に拍手喝采することぐらいしかできない。

 昔、哲学者の久野収がこういうことを言っていました。民主主義は代表制(議会)だけでは機能しない。デモのような直接行動がないと、死んでしまう、と。デモなんて、コミュニケーションの媒体が未発達の段階のものだと言う人がいます。インターネットによるインターアクティブなコミュニケーションが可能だ、と言う。インターネット上の議論が世の中を動かす、政治を変える、とか言う。しかし、僕はそう思わない。そこでは、ひとりひとりの個人が見えない。各人は、テレビの視聴率と同じような統計的な存在でしかない。各人はけっして主権者になれないのです。だから、ネットの世界でも議会政治と同じようになります。それが、この3月11日以後に少し違ってきた。以後、人々がデモをはじめたからです。インターネットもツイッターも、デモの勧誘や連絡に使われるようになった。

 たとえば、中国を見ると、「網民」(網はインターネットの意味=編集部注)が増えているので、中国は変わった、「ジャスミン革命」のようなものが起こるだろうと言われたけど、何も起こらない。起こるはずがないのです。ネット上に威勢よく書き込んでいる人たちは、デモには来ない。それは日本と同じ現象です。しかし、逆に、デモがあると、インターネットの意味も違ってきます。たとえば、日本ではデモがあったのに、新聞もテレビも最初そのことを報道しなかった。でも、みんながユーチューブで映像を見ているから、隠すことはできない。その事実に対して、新聞やテレビ、週刊誌が屈服したんだと思います。それから段々報道されるようになった。明らかに世の中が変わった。しかし、それがインターネットのせいか、デモのせいかと問うのは的外れだと思います。

 ―― 地震直後と現在と比べて、柄谷さんご自身の考え方に変化はありましたか。

【柄谷】それはもちろんありますが、あまり大きくは変わらないですね。最初は、この先どうなるか、見当がつかないぐらいだった。現在だって、こういう状態が、ずっとつづくのかなと思っていますが。原発事故の後、「ただちに危険はない」と、よく言われていましたね。でも、外国人はただちに国外に逃げていた。ドイツなんて、成田への直行便をやめてしまった。今でも僕が見ているのは、ドイツの気象庁が出しているデータです。彼らは最初の段階から、きちんと情報を提供していた。その日の風向きによって、放射性物質がどういうふうに流れているか、毎日伝えています。それは風向き次第で、大阪や札幌には飛んでいくし、時にはソウルまでいっている。外国人はそれを見ているが、日本人は見ていない。日本では内緒にしようとしているからです。だから、そういうことを知らない人が多い。しかし日本政府が隠そうとしても、もはや隠すことはできない。今はすぐにインターネットで情報が流れます。外国人は騒ぎ過ぎるとか、風評被害であるとか言う人がいますが、黙っている方が罪は重い。危険であることを当たり前に指摘するのが、なぜ風評なのか。日本人が何も言わないのは、真実を知らされていないからです。最近になって、段々状況がわかってきたので、怒り出した人たちがいます。

 つい最近、イタリアで、2009年4月に起こった地震(309人が死亡、6万人以上が被災した)に関して、防災委員会の学者らが大地震の兆候がないと判断したことが被害拡大につながったとして起訴された。この場合、地震学者が大地震は「想定外」だったと弁明することは許されると思うのですが、それでも起訴されています。一方、福島第一原発の場合、当事者らが大地震は「想定外」だったという弁解は成り立たない。東電はいうまでもなく、官僚、政府にいたるまで、罪が問われても当然です。あれは紛れもなく犯罪ですから。しかも、放射能汚染水を海に垂れ流していますから、国際的な犯罪です。「東京(電力)裁判」が必要になると思う。というと、これから未来に向けて何かしなければならないときなのに、原発事故の責任を問うということは、後ろ向きでよくないという人がいます。しかし、過去の問題に対して責任を問うことは、まさに未来に向かうことです。これまで危険な原発を作ることに、なぜ十分な反対もできなかったのか。そのような責任の意識から、僕は今デモに行っています。

 若い人たちは違いますよ。生まれた時に、すでに原発があったから。だけど、今後に原発の存続を許せば、今回と同じことが起こるわけです。デモの先導車でラップをやっていた若い女の子が、もし原発を放っておいたら、未来の人たちに申し訳ない、という。そういう気持が若い人たちにもあるんだな、と思った。それから、京都大学原子炉実験所の助教である、小出裕章さんという人の講演を聞いたときも、感銘を受けました。彼は「原発を止められなくて申しわけない」と話しつつ涙ぐんでいた。今回の事故の後、「ほら見たことか。俺はあんなに反対していたんだ」と言うこともできたはずですが、何であれ、止めることができなかったことに変わりはない、だから申し訳ない、ということです。原発を推進した連中が責任を問われるのは当たり前ですが、一番そのような責任から免れているはずの人が責任を感じている。ならば、僕のような者は、責任を感じざるを得ないですね。

 恐ろしいと思うのは、原子炉は廃炉にするといっても、別に無くなるわけじゃないということです。閉じ込めるための石棺だって壊れる。これから何万年も人類が面倒見ていかなければいけない。未来の人間がそれを見たら、なんと自分たちは呪われた存在か、と思うでしょうね。しかも、原子力発電を全廃しても、核廃棄物を始末するためだけに原子力について勉強をしないといけない。情けない学問ですが、誰かがやらざるをえないでしょう。しかし、いかなる必要と権利があって、20世紀後半の人間がそんなものを作ったのか。原発を作ることは企業にとってもうけになる。しかし、たかだか数十年間、資本の蓄積(増殖)が可能になるだけです。それ以後は、不用になる。不用になったからといって、廃棄できない、恐ろしい物です。誰でも、よく考えれば、そんな愚かなことはやりません。しかし、資本の下では、人は考えない。そこでは、個々の人間は主体ではなくて、駒のひとつにすぎません。東電の社長らを見ると、よくわかります。あんな連中に意志というほどのものがあるわけがない。「国家=資本」がやっているのです。個々人は、徹頭徹尾、その中で動いているだけですね。ただ、それに対して異議を唱えられるような個人でないと、生きているとは言えない。

 ―― 脱原発の動きについては、そのひとつの試みとして、ソフトバンク孫正義さんが提案している案(大規模な太陽光発電所の建設など)も、最近注目を集めています。

【柄谷】ぼくは信用しない。自然エネルギーの活用というような人たちは、新たな金儲けを考えているだけですね。エコ・ビジネスの一環です。太陽光というと、パネルなどを大量に生産することができる。あるいは、大量に電気自動車を作ることができる。しかし、サハラ砂漠ならともかく、日本では、太陽光発電そのものが環境破壊となる。そんなものは、いらない。現在のところ、天然ガスで十分です。それなら日本の沿岸にも無尽蔵にある。要するに、先ず原発を止める。それからゆっくり考えればいいんです。

 ―― 反原発運動を考える際に、現在「不買運動」の必要性を指摘する人もいます。これは、NAMの時に、柄谷さんがおっしゃっていたことに繋がっているんじゃないかと思います。

【柄谷】不買運動はいいと思いますが、今のところ、まずデモの拡大が大事だと、僕は思う。その中から自然に、そういう運動が出てくればいい。先程言った「就活嫌だ」というようなデモでもいい。とにかく何か事あれば、人がデモをするような市民社会にすることが重要だと思います。それが、主権者が存在する社会です。一昔前に、人類学者が『ケータイを持ったサル』という本を書きました。若い人たちがお互いに話すこともなく、うずくまってケータイに向かっている。猿山みたいな光景を僕もよく見かけました。たしかに、デモもできないようでは、猿ですね。しかし、ケータイを棄てる必要はない。ケータイをもったまま、直立して歩行すればいいわけです。つまり、デモをすればいい。実際、今若者はケータイをもって、たえず連絡しながら、デモをやっていますね。そういう意味で「進化」を感じます。

 ―― 最後に、現在立ち上がった運動が持続するために、何が必要だと思われますか。

【柄谷】デモをすることが当たり前だというふうになればいい。「就活嫌だ」のデモでいい。「職をよこせ」のデモもいい。デモをやる理由は無数にあります。今の日本企業は海外に移って、日本人を見捨てています。資本はそうしないとやっていけないというでしょう。しかし、それは資本の都合であって、その犠牲になる人間が黙っている必要はありません。異議申し立てをするのは、当然のことです。それなのに、デモのひとつもできないのなら、どうしようもないですね。誰かがやってくれるのを待っているのでは、何もしないのと同じです。誰かがやってくれるのを待っていると、結局、人気のあるデマゴーグの政治家を担ぎ上げることにしかならないでしょう。それは結局、資本=国家のいいなりになることです。

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(注1)「1960年以後、学生と労働者との断絶が続きました。1960年代末の全共闘のころは、学生のデモは労働運動とはつながりがほとんどなかった。その分、デモは過激なものになって、普通の市民は参加できない。」と柄谷は述べているが、事後的説明としては分かりやすい。そのためこうした言い方が流布されている。実際は、地区反戦青年委員会や労組が多く立ち上がっていた。柄谷世代の社共や権威知識人主導の国民会議方式ではなく、無名の青年労働者が主体であった。これが60年初頭と後半の違いであった。党派の派手なパフォーマンスによる街頭武装闘争の片方にはヘルメットをかぶっただけの無名の学生青年労働者のデモもあり、その方がむしろ多かったことを柄谷は正確に述べておくべきである。
事実私の初めて就職した一部上場企業には、労組が5つも並立し反戦青年委員会は社共労組にしっかり拮抗していた。1971年のことである。
また、柄谷は全共闘運動時代は市民労働者と学生が分断されていて、60年安保は一緒にデモができていたというが、はたしてそう断定的にいいきれるのか?
斉藤一郎著『安保闘争史』(三一書房)ではこのような報告がある。
「乱闘がつづいているとき、ひとりの女子学生は旗をふって『いま学生がたくさん殺されています。労働者のみなさんも一緒にたたかってください。』となきながらうったえた。しかし労働者のデモ隊はこれにこたえず、あらぬ方向に行進していって、学生を見殺しにした。日本の労働者は、この日、世界の解放闘争史上、かつてない汚れた一ページを自分の手で書いたのである。社会党(日本共産党の誤り-吉本隆明註)の腕章をまいた連中は、『整然たるデモを』といって、労働者と学生が合流するのを阻止した。また、共産党員はトロツキストの挑発にのるなといって、デモを銀座にながした。全学連主流派の国会正門前に座り込んでいる傷ついた学生たちに向かって、『トロツキストたちは国民会議の統制に従わず、挑発的な国会構内突入をやった』と悪罵しながら通りすぎていった。」
 学生と労働者が仲良く整然とデモができた時代でもなかったのではないか? あるいは一緒だったのは、社会党共産党の政治パフォーマンスに追従した学生労働者だけで、本気で成立阻止を勝ち取ろうとした人たちは最初から仲間と思っていなかったのではないのか?
ここでは、全学連主流派がなぜ国会構内集会にこだわったか、民主主義と日本国家独占資本主義の認識からくる、社共・知識人との違いには触れない。あくまで現在事後的に流布された「事実」認識を疑っているのである。柄谷までが、そうした俗流言説や、60年安保のカノン化にすりよっていることは問題ではないかと思う。

(注2)柄谷は今回の反原発デモが突然澎湃として起きたような言い方をしていることに対して、保守派の山崎行太郎氏が間違いを指摘している。山崎氏は自身のブログで、今回の大規模デモは、陸山会事件での小沢一郎の不当起訴、村木厚子冤罪事件、などの司法への異議やマスコミの謀略的政治家抹殺の言論ファシズムへ抗議に立ち上がった国民の延長線上に発生しているはずだと指摘。参加者の多くはこれにダブっているはずだと述べている。
この指摘に私も同意する。事実私自身も小沢不当起訴と憲法違反の審査会に抗議して参加してきた。ネットで見る限り、左右などのくくりではない良質な保守派や左翼クズレや市民自立派とでもいうネットを介して組織化されてきた無名の市民が主体となっていることは、この間の経過をつぶさに見てきたものには納得する指摘だ。