官邸前デモのアポリアと主催者「反原連」のイデオロギー性

今日は身体にトラブルが発生し、静養しているので書いてみよう。頭と手は動く。

この間ツイッターでは重要な問題が雨霰と降ってきて、政府の秘密裡の動きに国民も各党派もついていけていない。一言でいえば、よくここまで国民の嫌がる政策をごり押ししてくるとあきれ返る。野田内閣が帝政ロシアツァーリのごとくに見えてしまう。

中でも原発問題は依然国民の脱原発への願いは強く、それに加えてフクシマの被曝者への棄民政策に近い対応や原子力規制委員会人事問題が火に油をそそいでいる。これらの詳細は多くのブログやネットニュースに掲載されているので詳細は省くが、私が関心を示すのは国民の抵抗運動だ。

6月末から急激に増えた官邸前の脱原発デモであ。主催者発表で20万人。半分とみても近年のデモではありえない人数である。
60年安保国会前デモに匹敵する人数であろう。

このデモの動きを毎回ウォッチしてきたが、大阪からわざわざ参加もしきれないのでネット情報を貪るように読み漁った。
それまで報じなかったマスコミ6月末の大規模デモからNHKクローズアップ現代」に取り上げられ、映画監督森達也がこのデモの意味づけを語っていた。
マスコミなりのニュースバリーとして放映したいという意図が透けて見える内容で、森達也があることないこと十分NHKの意図に沿って語っていた。

私は途中からいい加減なことばっかり言うな、NHK的に表象を作ることは詐欺だぞ、と叫んでいた。
NHKがどうしてこの間無視し続けてきて、いきなり取り上げたのか解った気がした。同時にこのマスコミが各局一斉に報道し始めたことを単純に喜んでいる主催者に一抹の懐疑と不信をもった。そしてツイッターでは、「マスコミが急に報道し始めた時点で、このデモがエリート層に御しやすく無害だという直観を与えた。喜ぶのは反原連がデモは政治的行為だということがわかっていないのではないか」と述べた。

この後、主催者が「首都圏反原発連合会」という寄り集まり団体だとしるのだが、私とツイッターで激しい批判と反批判と罵倒のやり取りが展開されてゆく。
この時点で、ツイッターで彼らに噛み付いたのは私ぐらいでほとんどいなかった。一部に彼らが嫌う左翼らしき者だけだったように思う。彼らに苦言を呈し政治的強力を願って注文を付けるものには、口汚く「ロートル左翼」とののしり、人集めに成功したことの満足に有頂天になってる様子が窺えるようになって、とうとうマスコミに表立って登場し始めた。
従って私も「ロートル左翼」と主催者周辺の若者に袋叩きにあい、以後真面目に会話できる相手ではないと割り切って喧嘩腰の批判を続けている。

マスコミ、なんとなくリベラル派、ゆるい進歩派文化人有名人が作り上げた表象のもとに、極めて不可解なデモの理屈と実体がやっと問題視され、7月へ入ってからネットでは公然と批判され始める。しかし、それでも少数派である。多くはこのデモの「新しい」というマスコミや似非リベラル派の獲得した虚偽の表象に幻惑されている。そこには政府官僚と国民という対立軸以外に、エリート層と下層庶民との無言の対立があり、あり局面で支配層とエリート層が施策をめぐって対立しつつ無意識に相補的にふるまう領域があるからなのである。それが「支配的イデオロギー」と「秩序維持」という領域である。

では私がこのデモ参加者の心情とエネルギーを評価し大事に思えば思うほど、主催者「反原連」を厳しく批判するのは何かという点である。このままでは理由もわからぬまま衰退消滅するか、全く政治的効果も成果もないままに収束するだろう。というか、それは政治的行為である限りどこかで必然的にやってくるだろう、だから問題ではない。本当の問題はこの参加者が日常生活に帰って行ったとき、選挙行動をどう変え得るかという課題である。
はたして、デモに参加して、選挙では「よりまし」選択へ結果し、自民党が復活し、民主党が意外と健闘したなどという結果に堕落することは防げるのだろうか?


まずNHKが誘導した「新しいデモ」という表象は正しいか?
「新しい」という根拠は、組織動員ではなく普通の市民が自主的に参加している、という点を評価しているのだが、それはこの反原発デモが初めての現象であったかといえばそうではない。

ネットやツイッター情報で個人が自主的に参加したという形態だけでいえば、ここ二年にわたる小沢政治資金虚偽記載事件の検察糾弾デモの方が先であった。
このデモと比較すれば、動員数の違いだけで、まさしく日本の司法の無謀と民主主義を守る闘いとしてツイッターはフルに活用され、私もそれで参加した。参加して、デモ許可をとった方が普通に印刷業を営む人で徐々にデモが恒例化して続いていることを知ったのである。

しかも官邸前脱原発デモとの大きな違いは、脱原発デモのように体感的に生活への危機感が動機になってるわけではなく、司法の基本原理と民主主義の原則を理解し、一定の抽象度で論理的にものを考えた感度の高い自立した市民であった。

私のように小沢支持でもなかったが、司法のデタラメと冤罪を容認できないという点からむしろ小沢支持に転化した人たちが多かったように思う。

こした新しい検察糾弾デモを無視し、ひたすら小沢の人格破壊報道に明け暮れたのがマスコミであった。
そのマスコミが、今度は団体の背景が隠されている警察と取引をした安寧秩序デモを絶賛し始めた。それも小沢事件のときと同様6月30日の最大規模のデモを境に一斉に各局が報道に切り替わった。そこにはまさに作為的なものを感じない方がおかしい。感じないようなデモ主催者なら、よほどのど素人といわなければならない。それをやっと人数の多さに屈して報じ始めたと喜んでいた。私は奇異に感じたが、権力と対峙した経験のない若い層は素朴に過ぎると感じた。悪く言えば無知と未成熟といいうるのであった。