佃島幻景

およそ東京とは仕事場だと思っていた筆者が、定年後初めて観光気分で月島から佃島界隈を歩いた。
同行してくれたのは古くからの東京在住の知人だ。
今夏のなかで2017.8.26は特別蒸し暑い日で、立っているだけで汗が噴き出した。

月島商店街で初めてもんじゃ焼きを食べていると、激しいにわか雨が通って行った。

佃渡しで
    吉本隆明
佃渡しで娘がいった<水がきれいね 夏にいった海岸のように>
そんなことはない みてみな
繋がれた河蒸気のとものところに
芥がたまって揺れてるのがみえるだろう
ずっと昔からそうだった<これからは娘に聴こえぬ胸のなかでいう>
水は黝くてあまりながれない 氷雨の空の下で
おおきな下水道のようにくねっているのは老齢期の河のしるしだ
この河の入りくんだ掘割のあいだに
ひとつの街がありそこに住んでいた
蟹はまだ生きていたそれをとりに行った
そして沼泥に足をふみこんで泳いだ

佃わたしで娘がいった<あの鳥はなに?><かもめだよ><ちがうあの黒い方の鳥よ>
あれは鳶だろう
むかしもそれはいた
流れてくる鼠の屍骸や魚の綿腹(わた)を
ついばむためにかもめの仲間で舞っていた<これからさきは娘にきこえ胸のなかでいう>
水に囲まれた生活というのは
いつでもちょっとした砦のような感じで
夢のなかで掘割はいつもあらわれる
橋という橋はなんのためにあったか?
少年が欄干に手をかけ身をのりだして
悲しみがあれば流すためにあった<あれが住吉神社
佃祭をやるところだ
あれが小学校 小さいだろう>
これからさきは娘に云えぬ
昔の街はちいさくみえる
掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいって
しまうように
すべての距離がちいさくみえる
すべての思想とおなじように
あの昔遠かった距離がちぢまってみえる
わたしが生きてきた道を
娘の手をとり いま氷雨にぬれながら
いっさんに通りすぎる



吉本隆明は、熊本県天草から上京した船大工の三男として、
大正13年11月25日東京市京橋区月島仲通4丁目1番地(現中央区月島4丁目3番地)
に生まれる。

界隈は現在はビルと公園となっている。昔は商店が連なり長屋が棟をなして、活気
ある庶民の町だった。

その後、昭和3年近所の新佃島西町1丁目26(現佃島2丁目8番6)に越す。
以降昭和16年葛飾区の営団住宅に引っ越すまで少年期を過ごす。
府立化学工業をこの年卒業。


佃島の2〜4丁目を徘徊すると、まだ写真のような路地が点在し、昭和の原風景を
見せてくれる。

夕顔の日暮真白き叛意あり
             



驚かされるのは、町会がしっかり残って活動してい
ることである。
吉本の詩にもある佃祭が観光目的ではなく、庶民の生活の要として生きているこ
とである。










住吉神社
佃島は、徳川秀忠の時代、大阪佃村の漁民たちが恩顧をうったとして将軍より江戸に招聘、移住した地域である。佃住吉神社は大阪から分祀した江戸の佃の守り神である。
中には立派な神輿が納められている。


佃島側の佃渡し船の発着場跡。
現在ここから佃大橋が架橋され京橋・銀座へ直結する。
吉本の少年の頃は、漁民・職人の島であったが、同時に石川島播磨造船所の発祥の
地であり、銀座方面から通勤客がこの渡しを利用して賑わった。
また明治以降隅田川中洲として発生した佃島は、何度も埋め立てを繰り返し発展。


一個所残っている割堀と係留の釣り船。
吉本の父は隆明が幼年の頃、釣り船貸し業を営み羽振りがよかった。
このような係留舟がいたるところにあったのだろう。
この割堀と現在の佃島のマンション群の同居は、戦前の哀愁を差し引いても
切ないものが胸中を去来する。

少年の昏さが澱む夏至の堀


佃大橋を渡った対岸(京橋側)からみた佃島
左下に赤く見える鳥居が佃住吉神社
橋のない時代、多くの通勤客がこの風景を見たはずだ。もちろん高い建物はない。
吉本の幼少年期を育み、丸山眞男のように「知識人」として上昇しようとせず、
終生「大衆に寄り添う」態度を貫いた思想は、この職人の町に原点がある。

掌のなかの窪みを広げ夏の海

築地側の下町に生まれた芥川龍之介は、「知識人」として庶民を離脱した時、激しい葛藤に悩み自殺する。
戦後の三大思想家といわれ、60年安保の理論的主導を果たした清水幾太郎も、この近所日本橋の竹屋の息子として生まれた。60年安保後は激しい右派に変質していく。
この振幅は幼少期の下層庶民の心情が影響していなかったか。

佃大橋を渡り切った聖路加基督教病院の近くに福沢諭吉慶應学舎が建てられた。
明治学院大も、女子大も、数多くの大学が佃島の対岸から発祥した。
佃島が、外国人居留地でもあったからだ。近代日本の知識の集積地であった。

筆者は吉本少年が、下層長屋で膝を突き合わせて暮らし、近所の悪童たちと暗くなるまで遊んぶ姿を幻視し、何があっても大衆の日日の平和、子を産み慎ましく働き、老いて死ぬ、それ以上に大事なものなどありはしないという幸せの根源的思想を改めい追慕したのだった。