「俳句弾圧不忘の碑」除幕式

「俳句弾圧不忘の碑」除幕式
1940年(昭和十五年)二月十四日から1943年(昭和十八年)十二月六日まで、当時の戦争・軍国主義を批判・風刺した俳句や反体制的な作品を作ったとして、少なくとも計四十四人の俳人治安維持法容疑で検挙され、うち十三人が懲役刑を受けました。留置場で心身の過酷な苦痛を強いられたり、釈放後に病死したりした者もいました。彼らの犠牲と苦難を忘れないことを誓い、再び暗黒政治を許さず、平和、人権擁護、思想・言論・表現の自由を願って之を建立します。
(呼びかけ人66人、協賛者551名)

解説
金子兜太とマブソン青眼(仏人俳人)との対談で、碑を建てる話がでて準備。現俳協が設立当時の精神が変質している中で、ただの俳句仲良しクラブと位置付ける幹部がいて(実際そういう感覚でいる会員が多くそれを配慮したのであろう)、協会としての取り組みができなかった。従って呼びかけ人は、兜太とマブソンの周辺に片寄り、協賛者もその情報を取得できる周辺に偏った。従って名を連ねていないからと言って無視や反対者が多いわけではない。
ただし、ホトトギス系は虚子の関係者に呼びかけたがなんの応答もなかったとのこと。弾圧した側だから是非参加して欲しかった。保守派はあくまで戦前をまだまだ維持したいのだろうか。

建立場所は、窪島誠一郎無言館館長の配慮で、敷地内の槐多館の隣を提供いただいた。(上田市からは許可がでなかったため)
同時に弾圧を受けた俳人たちの展示館として隣には「檻の俳句館」が2月20日に完成している。
残念ながら兜太の命日になってしまった。
式は、兜太の黙祷から始まった。

わたしは、兜太追悼文で俳句作品より行政手腕を評価する旨のことを書いたが、兜太はまさにこういうところで俳句界の戦後精神の支柱であり、古い俳人精神の刷新に努めたと言えよう。

写真を見ると解るが兜太、マブソン氏、窪島氏の三人の除幕用の紐が一本だけ引くべき人を亡くして虚しく垂れたままだ。

司会はマブソンとよ氏、
開会閉会のことばは窪島誠一郎氏、
報告はマブソン青眼氏
俳句披講はマブソン氏の幼女、
来賓挨拶は、橋下夢道の次女、長女の婿。

来賓にも偏りがあり、もう少し俳句界全体の普遍化を図るためにも、信州居住の矢島渚男氏などにも話してもらってもよかったのではないか。現俳協の組織決定は無理としても、マブソン氏へのアドバイスとサポートが裏でする人がいてもよかったのではないのか。
それでも新聞発表では150人が集ったということで、盛況のうちに閉会できた。

取材社は、NHK朝日新聞阪神支局