竹田青嗣著『欲望論』を遅ればせながら読むー読書会の開始

竹田青嗣さんが、「原存在信憑」という概念を提示しているが、西研さんの本を読んできた者とすると、初めてぶつかった言葉でいかにも難解だなという印象だった。いい悪いということではなく、新たなタームを作らないといけなくなるほオリジナリティーな体系化に感嘆するわけだ。

哲学3000年の謎と課題をほとんど解決に導いた点で、ノーベル哲学賞があれば確実に贈られる業績であろう。

存在の謎、認識の謎、言語の謎、人間の宿業のように抱えいまだに「普遍化」しないため、人間社会は矛盾に満ちている。

竹田さんは、孤独に切り開いた「言語ゲーム」理論を基底に、哲学(人間の根源的問題)に新たな地平と回答を与えた。

この分厚い『欲望論』上下二巻のすさまじい論理は、今の批評性を解体し無効化し、近代の暴力の縮減を内包した原理の再認識を迫り、あふれるネット上の批評がくずのようなものだと知らせてくれるのである。


ヴィトゲンシュタインの寓喩として、以下のように説明している。

「人はある箱を持っている、としよう。
その中には、我々が「かぶと虫」と呼ぶ或るものが入っているのである。
しかし誰他人のその箱の中を覗くことはできない。
そして、皆、自分自身のかぶと虫を見ることによってのみ、かぶと虫の何たるかを知るのだ、というのである。―
ここに於いて、人は皆夫々の箱の中に異なった物を持っている、ということも可能であろう。
否、それどころか、箱の中の物は絶え間なく変化している、ということすら想像可能であろう。―
さてしかし、このような人々における「かぶと虫」という語が、それでも彼らに於いて、有効に使用されるとすれば、どうであろう?―そうであるとすれば、「かぶと虫」という語の使用は、或る物の名前としての使用ではない。
箱の中の物は、そもそもー或る<もの>としてすらーその言語ゲームには属さないのである⋯
なぜなら、その箱は空っぽですらあり得るのであるから。」
(『哲学的探究』ヴィトゲンシュタイン)
この寓喩は、ヴィトゲンシュタインの優れた哲学的直観をよく示している。
われわれはまさしく、一人ひとりが、自分だけが見る「世界」というカブトムシを誰にも見せることはできず、また、誰も他人のカブトムシを目撃できない。しかし人間だけは、各自がそのカブトムシのありようを「言語ゲーム」によって交換しあうことができる。
このことによって、人間だけが「世界の現実性」と「世界の客観性」についての集合的信憑を創り出す。
しかしまた、同じ理由で世界の「本体」の観念、価値や意味の「本体」の観念をも創り出す。
このことは人間にとって不可避なことである。
続けて竹田はこれから得られる存在の信憑性について述べる。
「われわれは、この事態を、このようにして生み出された「世界の本体」の観念を、世界は<確かに存在する>という不可避の観念を、「原存在信憑」と呼ぶ。
こうして「存在問題」は終焉する。
存在問題の終焉とともに、それに終焉をもたらしたものと同一の思考の原理によって、現代の「認識の謎」と「言語の謎」もまた解明される。」

 


独断論と価値相対主義の3000年来の哲学的は問題、特に近代を席巻している実在論と価値相対主義(ポストモダン)の批判的検討を展開していく一節だが、「言語ゲーム」理論の興味深い部分です。

 

いよいよ竹田さんを囲んで読書会がスタートします。
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なお、お知らせとしては、
西研さんのカント「純粋理性批判」が、NHKEテレでやってます。
大変わかりやすく、お婆ちゃんたちにも見させたら、わけわからんけど頓珍漢に好評でした。(笑) 難解ですが、自然科学が「客観性」をもち、科学主義が心の問題にまで適用して、世界的に心に関する学問系が大学から放逐されていくのか、原理的に間違いが分かるヒントを与えてくれるだろうと思います。
第一回は終了、
第二回は、6/15月曜夜10:20(25だったかな?確認してみて)
第三回は、6/22月曜夜〃
第三回は、6/29月曜夜〃