映画「君たちはどう生きるのか」(宮崎駿監督)の私的寸評

宮崎駿の「君たちはどう生きるのか」を観てきました。(7月28日)
相変わらず隠喩としての世界を描く手法に圧倒されました。
深読みならぬ深見すれば様々に語れそうですが、宮崎の意図とかけ離れ過ぎてもいけないし、考えをもう少しまとめてみたいと思います。
ただ一つ心に響いたセリフがありました。
主人公真人が、異世界へ紛れ込んで、キリコという謎の漁師のような人物に救われ、キリコの船で行方不明の叔母ナツコを捜すのだが、海の彼方に帆船のおびただし影が列をなして行くのが見える。(こうした描写は他の作品でもいくつか描かれているシーンです)
 その時キリコが言う、「あれは死者たちだ」、「この世は大方が死んでいる者たちだ」と。
ズキンときました。確かに生きているように見えて、実はほとんどの人は死んでいるのかもしれない。
本当に、「生をより善く生きている」人はいるのか。
そもそも「より善く生きる」とはどういうことなのか。
これこそ、ギリシャ哲学以来の問いなのでした。
宮崎のいままでの集大成のように隠喩としてのキーワードならぬキーデピクションが連鎖をなしていて面白かったです。
直観的に思ったことは、ひとは自分であろうとする存在だ、そのため自分の物語を紡ぐことをしないと生きていけないのである。
他人の創った物語を請け負ったり、その中に埋没することはできないし、まして善く生きていることとは言えないのではないか。
だから大叔父から血のつながりのある真人にしか大叔父(世界秩序の王)の世界を受け継ぐことができないなどと言われたら、それは拒絶する世界でしかないのだろう。
世襲であったり、血の継続であったり、家族の実体化や人種の純化など、拒絶することからしか、善く生きられないのは歴史の証明するところだ。
大叔父と対抗するのがオウム軍隊であり、その将軍が大叔父の維持している世界秩序の積み木を一刀のもとに斬り捨てると、異界は大崩壊を起こすのである。
これは、軍事クーデターか、あるいはファシズムの喩として喚起されるだろう。
これは、私が三つぐらい読み込んだなかの一つ、一面でしかありません。
(何を思いたったのか、最近ローマ字入力に切り替えたものですから、入力に手間取り、もどかしい。本来はもっと詳しく書きたいのですが疲れるので端折ってしまいました)