すなわち、「コミュニケーション的行為」という概念をもって、市民的公共性が不可欠であると主張した。
お互いに不倶戴天の論敵とみなされていた二人が、あっと驚く共同声明を発したのでした。
以下、声明を掲出しておきます。
だがこうしたナショナリズムの破壊力への反作用として、当然ながら多くの相互調整のモデルもまた形成されてきた。そしてこの関係調整のモデルこそ、非ヨーロッパ人から見た場合、比類なき文化的多様性にどこまでも彩られたこんにちのヨーロッパに、一つの固有の顔を与えているのである。ヨーロッパとは、幾世紀ものあいだ都市と国との抗争、教会権力と世俗権力との抗争、信仰と知との競合、政治権力間あるいは対立する階級間の闘争によって、他のいかなる文化よりもはげしく引き裂かれてきた一つの文化なのだ。その文化においては、異なるものたちがどのようにコミュニケーションし合うか、対立するものたちがどのように協力関係にはいるか、諸々の緊張関係がどうしたら安定させられるかを、多くの苦しみのなかから学ばなければならなかった。諸々の差異を承認することーー他者をその他者性において相互に承認すること、ーーこのこともたま、われわれに共通するアイデンティティのメルクマールとなりうる。」(デリダ/ハーバーマース「われわれの戦後復興ーヨーロッパの再生」、2003年2月15日ブッシュへの抗議のヨーロッパ大群衆デモの日に。)カントの永久平和を祈念した精神が反映されていることは間違いないのですが、今回のウクライナへの大国の侵略は、戦争である限りいかなる原因と理由があろうとも、認められるものではないでしょう。