ロシア、ウクライナ侵攻ーヨーロッパの苦悩と知の蓄積

フランクフルト学派のホルクハイマーやアドルノより少し後の世代として、ハーバーマスが登場する。
彼は、マルクス主義を色濃くにじませるフランクフルト学派を批判的に継承していく。
すなわち、「コミュニケーション的行為」という概念をもって、市民的公共性が不可欠であると主張した。
一方、マルクス主義をコテコテに批判してでてくるポスト構造主義に対しては、アドルノへの批判と同じ観点から刀を返してフーコーを批判するのでした。
 
フーコーニーチェにならって知への意思が権力への意志に他ならないことを暴露しますが、そういう解明を行っている知への意思もまた権力への意思でしかないのか。
フーコーの哲学は一種の自己撞着に陥らざるを得ないということを執拗にハーバーマスは批判します。
フーコー研究者はこのハーバーマスの批判を無視しほう被りし続けました。
 
それもそのはずで、フーコーは最晩年自己の哲学業績をフランクフルト学派を肯定し、もっと早くフランクフルト学派を読めばよかったと述懐して、自分をフランクフルト学派の系譜に位置付けたのでした。
 
またポスト構造主義デリダとの共同声明を記憶に新しいものです。
お互いに不倶戴天の論敵とみなされていた二人が、あっと驚く共同声明を発したのでした。
 
ロシアのウクライナ侵略に際して、この二人の声明はまったく色あせていないばかりか、改めてヨーロッパ哲学者が、ヨーロッパ中心主義と批判されようとも、論敵同士が相互に絡み合って一つの主張へアウフヘーベンする力は、人類の知的営みをリードする姿だと感じないわけにはいきません。
以下、声明を掲出しておきます。
 
「ヨーロッパは、接し合い対立しあういくつもの国民国家からなっている。国語・国民文学・国民歴史のなかに刻印された国民意識は、長いあいだ爆薬として作用してきた。
だがこうしたナショナリズムの破壊力への反作用として、当然ながら多くの相互調整のモデルもまた形成されてきた。
そしてこの関係調整のモデルこそ、非ヨーロッパ人から見た場合、比類なき文化的多様性にどこまでも彩られたこんにちのヨーロッパに、一つの固有の顔を与えているのである。ヨーロッパとは、幾世紀ものあいだ都市と国との抗争、教会権力と世俗権力との抗争、信仰と知との競合、政治権力間あるいは対立する階級間の闘争によって、他のいかなる文化よりもはげしく引き裂かれてきた一つの文化なのだ。
その文化においては、異なるものたちがどのようにコミュニケーションし合うか、対立するものたちがどのように協力関係にはいるか、諸々の緊張関係がどうしたら安定させられるかを、多くの苦しみのなかから学ばなければならなかった。
諸々の差異を承認することーー他者をその他者性において相互に承認すること、ーーこのこともたま、われわれに共通するアイデンティティのメルクマールとなりうる。」
(デリダ/ハーバーマース「われわれの戦後復興ーヨーロッパの再生」、2003年2月15日ブッシュへの抗議のヨーロッパ大群衆デモの日に。)
 
カントの永久平和を祈念した精神が反映されていることは間違いないのですが、
今回のウクライナへの大国の侵略は、戦争である限りいかなる原因と理由があろうとも、認められるものではないでしょう。