同窓会と同窓の校友など知らないー58年後の初対面

土日月と故郷から東京を駆け巡ってきました。
同窓会は450人中出席者は71人。ほとんどが物故者と遠方者のため出席叶わずといったところ。なかには、物故者にリスト化されていた人もいたw
今回も痛感したのは、いかに影が薄い高校時代だったか、こちらも名前は知らない、顔を観たことがある程度の学友ばかり。
宴もはじけて、友人とスナックで飲んでいると、男女客が入ってきて、友人と親しく話始めた。彼らは私を当然しらないが、さっきまで同じ会場にいたので話題が同期してお互いを同期生だと理解した。彼も彼女も全く私のことを知らなかったのだ。
 名刺を渡すと、そいつが、ネット会社社長の後輩から危険な感じの本だが診てくれと預かっている本があるのだが、なんでも脅迫事件があって校友会誌に載っているその著者の文章を削除したんだといっていた、それはあなたか?と酔っぱらいながら再三問いかけてきた。友人がそうこいつだとばらすから、仕方なくあんたが持ってる本は多分間違いなく私の本だろうと告げた。感無量と言った風に頷いて、いやーこの人にぜひ会いたいと思っていたと。なんでも大道寺将司論に感動と疑問があって、会ってみたかったのだと。
本人曰く、立教大のフロントだったのだと、今夜は久しぶりに血が騒ぐと質問攻めにあった。
この歳になると知らなかった学友が、結構「極左」だったことが知れて、彼は一人ひとり名前をあげて消息を語ってくれた。
一番悲惨な奴は、解放派だったが、70歳まで公安に付きまとわれたとのこと。
ベトナム戦争拙稿NHK取材拒否事件で学校と対立して以降、私は完全に部室にひきこもった。この取材を受けることができていたら、多分私は希望通りジャーナリストの道を歩んだことだろう。若手の言論人として今のようなみじめな人生を終わることもなかっただろう。友人は5人程度しかいなっかた。
女子の一人は大学3年で学生運動の果てに自死、もう一人の女子は学生運動で大学中退し、三度の離婚をくり返し、波乱万丈の末50歳で自死、親友は青医連活動から小児科医となって脳性麻痺児の脳に瑕があることを発見、世界的発見であったが研究室の後継指名争いに敗北して45で自死。他の二人も既に鬼籍に入った。
私の高校世界は、そういうことである意味消失しているのだ。
東京は7年ぶりであっただろうか、変わっていて、記憶も薄くなっていて、参った。
(東京編へ続く)
写真:富士川鉄橋からの富士山、田子の浦港より富士山、
   田子の浦港、新宿すずやの豚カツ茶漬け。