世間は狭い❣中村丈夫につながる人脈の豊かさ

オッたまげた、世間は狭いなー。
横浜の「港北ジャーナル」の一人、大御所風のI氏から頂戴した『紙碑中村丈夫ー共産党から新左翼への70年』で判明した。
中村丈夫は共感して何度か雑誌論稿を読んだことがあった。
寄稿のI氏はその同志であり、同様寄稿している設楽清嗣氏もその一統のようである。
設楽さん、と私らは呼んでいたが、慶応大ブント出身だとしか知らなかった。
 私が自分の労働問題で大阪管理職ユニオンに関わったのは40を過ぎたころだった。大阪のキャップは中村さんと言って、彼もブント反青年委出身者だった。
東京の設楽ユニオンは強固な交渉力、過激な抗議行動で武勇を馳せていた。私は中村委員長からの伝聞だけだったが一度会ってみたいと秘かに願っていた。人への興味が人一倍強い私は、唐牛健太郎との晩年の付き合いをいずれ伝記風に書いてやろうと思って、ネタ探しをしている頃でもあったからだ。
残念ながら唐牛伝は、その20年後佐野眞一によってそのまんま『唐牛伝』となって出版された。だがその一部に私の唐牛の思い出を佐野が目ざとく見つけて、70全共闘世代からみた唐牛の在りようをメモしたものをちょこっと載せてくれた。
話がそれたが、ユニオン系労組が新左翼の残党で次々に設立されていった頃、設楽委員長は公安がもっとも監視対象としただろうと推測した。何しろ、鹿島建設労使紛争では、数十名の労組員と会社のピケラインを突破して、玄関ホールへなだれ込み占拠した。当然みんな逮捕されたと聞いているが、80年代?にもなってこんな過激な連中がいたんだと、胸が熱くなったことも記憶に新しい。一度設楽氏が大阪にきたことがあったが、所要であいにく会う機会を逸した。何のことはない、会ったこともない人物なのだが、むしろその方が心に残る場合もある。抽象的な観念性だけで収まる分にはピュア―に受け止められるが、生身の人間には生臭さや人格のいびつさをもろに突き付けられる場合があるからだ。
I氏は私の恩師教育大の2つ下のようなので、これまた懐かしい雰囲気がする。若くして死去した恩師の教育大時代の雰囲気をたっぷり聴けると嬉しい。本来なら私の人生の方向性を指示してくれた恩師とはまだまだ語りあいたかったのだ。
今でも深夜沸々と思いが湧いてくる時がある。
さてぼちぼち『紙碑中村丈夫』を好きなところから読んでいくとしよう。