天皇皇后結婚50周年

10日NHKTVの特集をみていて、あーこのことかと納得したことがあった。

外国の新任の駐日大使が着任の折天皇に挨拶の拝謁をするという件である。これが何に拠ってなされるのか、ということである。


山崎行太郎氏のブログで、これは憲法には国事行為として書かれていることではないと事前に教えられていたので、ナレーターが「国事行為」として紹介したときふと違和感をもった。

まあ慣例的に行われている仕事だから「国事行為」といっても間違いではないのだが、すんなり「国事行為」と解説されるとキチッと憲法に明記された事項かとみなしてしまう。


山崎氏の説明では明治憲法下の慣例が、戦後憲法規定からはずされたのを吉田茂が一存で復活させたということのようである。だから現行の法的根拠をもつものではないようだ。


国民主権とはいいながら、外国の大使が着任の挨拶に出向かねばらないとすると、やはり天皇が元首なのかと妙な錯覚を実感してしまうのではないか?と少し不安になった。


ちなみに、山崎氏はこのことをわざわざ説明しているのではなく、『SAPIO』に小林よしのりがまた俗悪な天皇制論を掲載し始めたことを批判ているなかでの話しである。沖縄集団自決裁判で完膚なきまで批判されその如何わしさはもう思想的に破綻したにもかかわらず、こんどはまたつまらない天皇論を書いてるがマンガ右翼はもう退場しろと宣告しているわけだ。


話を戻すが、わたしは天皇皇后両陛下には好感をもっている。大多数の国民がそうだろう。天皇は主観的には極めて平和主義者であり、平和希求への実践者でもある。皇后もあの華奢なからだで、よく皇室の因習に耐え陰湿な(傍からみていると)皇族宮家と悪意のメディアを跳ね除けてこられたと思う。


日本の皇室が時代を先取りした戦略で成功してきたのは猪瀬直樹クンの著作につぶさに描かれている。
講座派の「天皇制」などという政治体制がありえない誤認であったことを識ったのも40歳を越えた頃だった。それまでわたしなりに「天皇制」反対で廃止すべきものだと考えていた。


しかし、さまざまなこの30年の研究成果に触れるたびに、旧来の右翼や左翼のいう「天皇制」は間違いであると思うようになった。
その直接の政治社会構成としてのの統治者は、ここ明治以降近代のごく短い期間であり、政治的統治システムとしての「天皇制」は本質規定からは的外れである。


このへんは、はやくから吉本隆明江藤淳は提出していたがなお意味を把握しかねていた。


ただ今の「象徴」天皇などという人権もないような抽象的存在ではなく
、国家の枠組みから完全に解放して差し上げるのが天皇家の未来にとって一番いいのではないか。そして、国家国民の安泰とアイデンティティの元締めとして存在することが、最も禍根を断つ国民と天皇家の契約であるように思う。


明治以降日本近代の形成期に政治の前面に露出し、良くも悪くもその役割を終えた今、再び京都へでもお戻りになって、静かに天皇家が続くことが一番いいように思う。


ちなみにこの京都から東京へ行幸のまま江戸城に入り、遷都したことはこれまた何の法的根拠もなく、厳密に言えば日本の慣例的認定としては「都」は未だに京都であるそうな。