ジャーナリズムの誤認と劣化、供述調書漏洩事件判決(崎浜医師)

今日は難しい問題含みのニュースが3件もあった。
ひとつは、「田原本少年焼殺事件」に関しての崎浜医師に秘密漏示罪の有罪判決。
二つ目は、朝日新聞阪神支局襲撃犯人の告白が偽者で週間新潮が今週号で誤報の経過報告と謝罪記事を発表するとのこと。
三つ目は、痴漢裁判の最高裁無罪判決。

中でも、仕事柄「田原本少年焼殺事件」はジャーナリズムないしジャーナリストの本質的問題を含んでいると思い、整理しておく。


継母と妹「焼殺犯」の少年の精神鑑定書を書いた崎浜医師が、職業上の秘密を漏洩したとして少年の父親に名誉毀損で訴えられ、懲役4ヶ月執行猶予3年の実刑奈良地裁で降りたということである。


崎浜医師が秘密を漏らしたと何故解ったかというと、草薙厚子というフリージーナりストが『僕はパパを殺すことに決めた』(講談社刊)という本を書くに当り、この崎浜医師に取材し、そのときせがまれてつい供述調書やら自分の精神鑑定書を見せてしまった。


本人の弁明では、少年は殺人者なんかではなく、広汎性発達障害という病人であって、世間の少年バッシングと誤解を解き、更正を容易に準備するためであったとする。


草薙厚子が書いた分だけでは通常崎浜医師が直ちに特定されないのだが、問題は草薙と講談社が訴えられて苦し紛れに、あろうことか崎浜医師の名前を
出してしまった。


取材のニュースソースは殺されても明らかにしていけないのがジャーナリストのモラルである。これは誰に強制されるものでもない。
それは取材テーマをより深く掘り起こして真実を見つけていこうとすると、世間のしがらみや権力に潰されかねない取材関係者もいるわけで、それらの人びとへの配慮なくして事象の多面的な証言と把握がおぼつかなくなるからだ。


その点で草薙厚子はジャーナリストを自称するにおいて決定的なミスを犯している。どのような言い訳をしても正当性はないと思う。


さらに、崎浜医師は資料を見せるにあたって、草薙には直接の引用をしないという条件をつけてみせている。
ところが実際の本は、ソックリそのまま転載されており崎浜医師の約束は反故にされている。


わたしが悪質だと思うのは、この本のタイトルのつけ方からもハッキリ草薙と講談社の意図が売らんかな主義にあることはミエミエであるということだ。このドクドクしいタイトルには、崎浜医師の医師としての良心と少年の更生への思いなど微塵も考慮されてはいない。


さらに悪質なのは、この本の表紙の装丁に少年の書いたパパの「殺人計画表」というカレンダーをそのまま使用しているとのことである。
草薙が医師を取材した折、同行の講談社スタッフが黙って写真に収めた。


このノリは、俗悪な世間の好奇に少年と生き残った父親を晒しものにするだけで、なんらこの事件を同時代のひとびとへの自己内在化を試みる端緒を提供しようとする姿勢ではない。明らかに売れるためならギリギリのところを狙っていこうという以外ではない。



通常こうした企画物には、フリージャーナリスト自身による持込企画と、出版社側の企画にライターとして下請けするケースがある。今回どちらのケースかは知らない。しかし講談社ともあろうところが、あまりにもひどい。いや講談社だからこのえげつなさなのだということか。


草薙と講談社はこの件で相互に対立して以下のようなやり取りがあったようだ。以下Wikiから引用。


同年12月10日、講談社は『僕はパパを殺すことに決めた』について、「コピー禁止」「直接引用禁止」「原稿の事前確認」の合意に反した「出版倫理上の瑕疵がある」と指摘した文書を全国の図書館に配布した。しかし草薙は、この3点の約束は無かったと主張し、講談社のHPに自身の見解を掲載させた[14]。

2009年1月14日、草薙は、調書漏洩事件の公判(奈良地裁)で、一転して調書の入手先が起訴された医師であることや、許可なく調書を写真撮影した事実を認めた[15]。引用は講談社からの提案だったという。

ここでも草薙はおかしい。
まあコピーはしばしばありうる。直接引用はソース元の許可は常識であり、ジャーナリストの常識があれば丸写し引用するなら自分の方から許可をとるのが普通で、相手側がだまっていたから使っちゃえというのは、信じられない悪質さである。また原稿の事前確認も交通事故のニュース原稿じゃないんだから、ソース元の意図した発言どおり書けているか、表現が第三者を傷つけることがないかなど配慮するためには必要不可欠であっただろう。
その点で、講談社社内の検証報告と反省は当然であ。
この草薙の見解は読んでいないので、真意がわからないが、この見解に反論があるとすると理解に苦しむ職業倫理観の持ち主だと思う。


どうもよく解らない。
どうして崎浜医師も講談社の編集担当者も易々とこの草薙とのやりとりで、通常ありえないような「脇の甘さ」を露呈しているのだろうか?
普通につめれば、何度も念押しをしたり、文書でやりとりしたり、こんな俗悪な売らんかなの見本のようなタイトルや装丁にはならないだろう。


わたしの下卑た憶測だが、草薙厚子が自覚的に女性性を武器にしていたかどうかは解らないが、44とはいえまだまだ女として通用する容貌であり、その女性性に惑わされてしまい、相手が男ならこうまで甘い対応をしなかったのではないかと思うのである。


大卒後、少年鑑別所法務官というお堅い職業から、ブルームバーグのTV部門のアンカーに転進している変わった経歴のようだが、メディア業界でどれほどジャーナリストとしての基礎的訓練をつんだのかよくわからない。この仕事は、わたしの俳人などと同じく、自分でフリージャーナリスと自称すればすぐフリージャーナリストになれるわけで、取材される場合にはどの程度のものか調べる必要がある。


何冊か著作もあるようだが、わたしが識らないのだから鳴かず飛ばずだろう。


それにしても法律は皮肉なもので、崎浜医師と草薙の共同正犯が成立しないのは、最初から単行本になることを崎浜医師が認識していなかったため、つまり共同して名誉毀損の本を出すという意思一致が確認されないということのようだ。で草薙は起訴されていない。


判決の法廷に草薙は来てもいなかったとのことである。


なお、草薙厚子に関して、過去事実誤認記事を書いて訴えられている事案があり、『「ニート」っていうな!』の著者後藤和智氏は、「我が国ジャーナリストといわれる人では最悪の部類に入る人」といって憚らない。
後藤氏も過去に取材ネタの簒奪などで訴えている。
草薙は顔に似合わずそうとうタチが悪いというかやり手(ヤクザ)なようだ。


なおジャーナリストの有田芳正氏は、ブログで草薙を弁護している。

前妻に対する自分の面子で少年を医師にすべく日常的暴力で受験勉強に駆り立てた異常な様子が調書ではリアルに明かされている。事件の根源がこの父親の人格にあることを無視して少年の動機は理解できない。それが明らかとなったことが耐えられなかったのだろう。社会が事件から何事かを教訓とするには、父親にとってはつらいことだがこうした「事実」を知らせることからはじまる。情報を得たジャーナリストの立場からすれば、知った以上は報じなければならない。ましてや匿名ではなく名前を出して書くことはそこに責任が伴っている。私が準備している単行本『X』について、ある危惧を抱き鶴見俊輔さんに相談したことがある。そのとき鶴見さんは言った。「たとえ訴えられても書きなさい。それが歴史への責任というものなんだ」草薙さんもそうだと思う。ただし情報源との関係で問題はなかったか。情報源には「引用する」ことまでの了解は得ていただろうか。そんな疑問もある。しかし、私はあくまでも草薙さんを擁護する。少年事件の再発を少なくするためには、本来法務当局などが事件の概要を明らかにすべきだからだ。そうした再発防止策を取らない怠慢こそ糾弾されなければならないのだ。


有田氏の一般論としてのジャーナリストの決意表明か使命感としてならなにも反対しない。しかし、事案の検証とは個別特殊の問題を具体的にとぎ解していかなければならないし、その作業こそがジャーナリストの得意とするドキュメンタリーという手法であろう。
取材方法とテーマの表現方法を法務局の怠慢の問題にすり替えてはいけない。また、それだからこそ、同時代人へのメッセージを届ける媒体(本)表現が配慮されなければならないのだ。


たとえ事件の背景に「悪い」父親がいて原因を作ったとしても、教訓としたいならナンデモあからさまにして本にしていいということは別のものだろう。本来法務局が明らかにしないために教訓として世間が正しく認識しないのだというなら、それは法務局の問題であり、露悪的な本にして父と少年を世間に晒さなくても別の方法はいくらでもとれる。その見極めが、人間に対する本当の愛情をもって書けるジャーナリストかどうかの分かれ道だ。