『言葉なき政治の貧困』内田樹はおもろいが問題だ(前篇)

新潮45GW号の内田樹論文を読んだ。最近内田氏の軽妙で的を射た諸論考を共感をもって読んでいた。
 この論考も大方内田氏らしい切り口で納得しつつも、基本的な問題、すなわち政治家の言葉を問題にしながら、政治の原理的な話を無媒介に言葉以外の領域に越境して、その事自体の政治的考察なくおもろい読み物に陥っているのではないか、と感じるところも幾つかあった。



政治家の言葉が何故軽くなったのか?
この問いから氏はみごとに平明に展開している。


1.アメリカと日本ヨーロッパ諸国などとの違いについて。
 アメリカは世界で唯一(ソ連があったときは二国のみ)「設計図」をもって、それに参集して作り上げた国家である。従って、国民は元の「正しい設計図」にもどすと言うと納得する。だから「システム不調は偶然的な『バグ』なんだから、『仕様通りの部品』ととりかえればきちんと機能するに違いないという『設計図神話』がいきている」という。


そして人類学的ソリューションとして普遍化されているブリコラージュ(レヴィ=ストロース)をそのソリューションとしていない、という。(「ブリコラージュ」というのは、「ありあわせのものでなんとかする」という意味)つまり建国の原則へ戻って対策をうつという「物語」が国民を納得させるのだ、と。オバマはこの「物語」を訴えてみごとに具体的政策抜きで国民を熱狂させた。


では日本は?
日本は武道でいう「先手」に対して「後手」の体質だと内田氏は合気道の達人らしい比喩を使う。
つまり設計図をもたず、絶えず「所与の状況」にてきぱきと適応してとりあえず最適解で応じている、政治風土だと言う。

日本が近代以降もちえた唯一の国家像は「國體」というものです。
(中略)けれども「國體」が何を意味するのか、それに答えることのできる人間はどこにもいなかった。それが暴露されたのは、ポツダム宣言受諾のときです。その宣言の文言の中の「天皇及び日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従属する」という条項があった。果たしてこれは「國體の変革」を意味するかどうか御前会議で大議論になったのです。

と「日本帝国の最高首脳部においてもついに一致した見解が得られ」なかったと丸山真男を引用して論証している。


そういえば、国防というとき国民は自衛隊が生命財産を守ってくれるとぼんやり思っているが、来栖元統幕僚長は否定していましたね。自衛隊が守るのは「国体」であって国民や財産は守らない、それは警察の役目だと。ではこの「国体」とはなにか?それ以前にこの自衛隊幹部の言うことはコンセンサスになっていることなのか?これも曖昧のままではないのか?


統治原理をもたぬまま事が起こった段階=「所与の状況」にとりあえず「最適解」を出せばいいや、という国民病は間違いなく広域に感染している。


2最適解マインドとはなにか?
このような体質は、受験勉強の受験生と試験問題の関係に似ていると。
つまり受験は何のためにあるのか、という原理的問いはさておいて、出された問題には「最適解」を必死で解いていく。この能力には日本人は長けている。
確かに官僚は幼少からこの「最適解」の訓練に勝利し、その思考パターンを抜け出せぬけど、一応自分たちではえらいと思い込んで、日本の「内閣官僚制」をつくり対米従属をつくりあげてきた、これはとても判りやすい話だ。


3.日本政治の「風土病」
だから麻生総理が、小手先の言い逃れや揚げ足をとったりという「小技」に終始して、経済恐慌というすでに現出してしまった困ったことに対処する以外なにもしないというのは、彼の責任ではなく、日本の風土病から起こっていることだと言う。


 おいおい、それはちょっと言いすぎではないのか内田さんよ。少なくとも民主党なんかは、そういう国家戦略を欠いたこの政治風土にマニュフェストというものを持ち込もうとして努力しているではないか。旧態依然官僚にのっかって最適解を棒読みする麻生総理と同じにはできない試行も一方にはあるのではないのか?という疑問も湧くが、大筋は納得。


従って政治家にメディアも国民も、最適解=受け身対処の政策がよかったかどうか、「採点者」として振舞う。政治行動というものは、このような採点に終始するだけではなく、もっと国家理念だとか戦略論だとか、そういうレベルもあるでしょうと言うのだ。


こうした政治の「後手に回ること」という理解が自明になっているのは日本人ぐらいのものじゃないか、と内田氏は国民病をえぐるのです。日本外交をみていると、相手の「様子と出方ばかり」に終始し、北方領土もロシアが返してくれそうもないようだから2島でいいとか面積で2分割だとか、馬鹿なことばかり言ってそれがあたかも現実主義のように言われる。なーんだそれはただの「風土病」だったのだ。確かに納得。


4.「病気」の麻生総理の問題
こんな国民病だから麻生総理に個人的瑕疵はないとしながら、以下の「個性」を指摘している。
彼は現代政治家の理想型、「言い訳、言い逃れ、言いくるめ」や「論点をずらす」のが得意だとか。とくに論争に不利になると「そんな話をしているわけじゃない」と言って
後はごちゃごちゃわけの解らないことを言うだけ。この「そんな話をしているわけじゃない」という「問題の再設定」をして本当の問題が論議されたためしがない。整合性ある議論のさなかにこれを一喝されると、相手に無力感を与える。この手法に長けているのは警察とやくざだそうだ。なるほど思い当たるぞ。そしてこのテクニックは、「どちらが権力的に優位か」を決定づけ、「ことのよしあし」よりも「誰がボスか」を確認することを優先的に配慮するタイブの人間であることがわかるのだと喝破する。

だから、相手の話に全く取り合わない。質問の中身には答えないで、言葉尻をとらえる。問いに答えないで、「なぜ、どういう立場から、あなたはそういうことを訊くのか」というふうに質問者の足場を攻撃する。これは一見すると、問題を根底から捉え返そうとするラジカルな態度のように見えますけれど、実際彼が求めているのは「この場のボスはオレだよ」ということの確認だけなのです。

会社にも議論の形成不利とみるやこの言葉を一喝するこの手のボスは確かにいる。見事な分析である。


また麻生総理は「自分について書かれていることは間違っているから新聞は読まない」と公言したが、内田氏は間違いだと指摘する。

「正味の自己像」とどこが違ってどこが同じかなどということは、どうだっていいことです。どんなに本人が下劣で邪悪な人間であっても、他人からは高潔公正な人間だと思われていれば、政治家としては成功するし、その施策も具体化する確率は高い。だったら「他人からどうみえるか」を優先的に配慮するのが政治家の仕事でしょう。

政治家は自己意識より政策実行力だ、己を捨てて施策を生かせということですね。このあたりは、内田氏の現象学派としての自我論がフルに生かされています。みごとです。
しかし、次の小沢一郎問題での言及はややいただけない。政治家の「言葉」の問題からの勇み足であるように感じるのですが。


疲れたのでひとまず中断。つづく。