鳩山所信表明と新政権

政権交替が確定してから、一月以上が経ったなかで、鳩山総理の所信表明演説があった。
この一両日でメディア、識者、無名のブロガーのそれぞれの評言が溢れ、いくつかのパターンに集約されつつある。


TVメディアの脊髄反射的時間枠つぶしだけの「長すぎる」などという内容になんらコミットしないコメントは論外として、自民党谷垣に代表される具体的内容がなかったというところに反対派の批判は集中しているようだ。


しかし、これは的を外れている。
これほど、具体的に政治の進むべきベクトルと、政治が国民と共有しなければならない価値観を具体的に語った総理の所信表明はいままでにはなかったように想う。


それも極めてこの30年近くに渡る世界的なフリードマン市場原理主義の弊害と困憊に決別しようと宣言していることは、少し現代史を知悉したものには明らかである。


宮台真司によれば、イギリス労働党社会学者によって提起された新自由主義(ニューリベラル)という概念は、本来極端な市場原理主義を意味していない、ということだ。逆に、行き過ぎた市場任せによる社会的諸矛盾を、政府によってコントロールしながら資本の流動性と冨の再配分に配慮しようという考えであった。
つまり、資本主義は健全な市民社会に担保されている、という明快性であり、政策においてはセーフティネットを網羅した社会包摂性の高い互助社会を意味していたのである。


しかし、新自由主義(ニューリベラル)は日本に移入されるまでの段階で、本来の意味を逸脱して、社会包摂性の低い、極端に小さな政府と市場放任の何でも民営化政策に摺り返られた。


わたしたちも、詭弁とデマゴーグの小泉・竹中一派によって、この語感の心地よい新自由主義(ニューリベラル)を誤解してしまった。
案の定、彼らの経済思想によってもたらされた諸矛盾は、イギリスほか先進国の失敗をなぞったものと同質のものである。


わたしは鳩山総理が、表明した理念が実現可能な政策に具体的に落とし込まれるのかどうかを今一旦切り離して、問題にしていない。
あくまで総理所信演説に絞ってみている。


歴代総理の表明で、これほど政治理念を解りやすく、国民と共有し、国民に寄り添っていこうという姿勢を前面に訴えかけた演説は他になかったと記憶するからである。


前麻生総理は歴代のなかでもワースト3ぐらいには入るのだが、基調は自分の位置づけをナショナルな伝統的情緒に置いていることである。
鳩山総理には、それがない。これはやはり自民党と心性において違うものを求め始めている国民が多数を占め始めていることと診ても良いのかもしれない。


その分析は学者に任せるが、少なくとも自分の言葉で政治理念を歴史的文脈を踏まえて長々語りうる政治家は絶えて久しい中で、特筆すべきである。


こういうトップが戦後60年を経て出現したということは、歓迎したい。
ただの学者あがりさと言うことも可能だが、土建屋あがりや企業家あがりよりはましである。
断っておくが、今評価しているのは表明演説の一点についてのみを対象にしているから誤解があっては困る。


さて、既に政局は回転はじめている。
各大臣の苦闘は予想を上回っている。あるいは閣内不一致やら小沢支配やらメディアは時間潰しのニュース商品を切り売りしているが、再びステロタイプの図式的整理など期待をしていない。


内閣の閣僚が、抵抗にあい、苦悶する姿こそ今は信じられるときなのだ。
各大臣の言うことが不整合であっても何でも、国民の前に様々な考えと選択肢が露呈される前に、官僚に秘密裏に調整され隠蔽されるより余程ましなのである。
そういう意味で、散乱する意見が一つに調整されいくプロセスの透明化は、刑事の取り調べの透明化と同じぐらいに国民には大事ではないか。


それによって、政治家の勉強度合いと見識の高低を国民はチェックできるのである。これも民主党が、政治主導を少なくとも心掛けようという効果であろう。
つまり、わたしたちは政治家が本来われわれと同じただの市井人であり、困難に苦闘したり苛立ったり、生の息遣いが伝わってくることを望んでいるのではないか。
メディアや反対派は、なにをしたって下司の勘ぐりに終始するだろうから、大いにワクワクさせて欲しい。問題解決の論議の水準を落とさない限りでの話だが。
それが国民を参画させる条件であるように思う。


個別の懸案事項では、多々注文はあるのだが、鳩山総理の所信表明の特色についてとりあえずの感想である。