小沢一郎「金権政治」の本質−三上治氏からの立花隆とメディアへの批判

民主党の新執行部体制もスタートし、順調に支持率回復をしつつある。政権交代を期待する者としては、歓迎すべき推移である。

しかし相変わらず電波芸者やマスメディアは小沢の院政だとか、影響力排除が不徹底だから政権交代は怪しいだとか、小沢が選挙担当になったことにまだ怯えている。


鳩山代表は小沢同様、記者クラブの廃止を宣言し、マスメディアへの挑戦状を突きつけた形だ。これは民主党の基本改革の一つであってみれば、別に小沢個人というより、既得権益層の排除という意味で、マスメディアも当然含まれるわけで、あえてこれを小沢の影響だというのは論理的矛盾である。


なぜか?マスメディアは小沢は古い体質だと言い募ってきたのだから、古い小沢がこんな新しいことを思いつくはずがない、というのがマスメディアの論調とならなければ論理矛盾だろう。


とにかく、いままでも書いてきたが、メディアと大学教授や言論人のデタラメさは眼を覆うばかりであったが、偏に大衆のエモーショナルな陥穽に落ち込み、自立した知識人の片鱗も見えなかった。


小沢は小沢なりに極めて原則的な保守変革者で、1994年の政治改革により、小選挙区制と政権交代可能な二大政党制へのヴィジョンをスキームとする「55年体制の脱却」を旗印に自分の政治信条を貫いてきた。民主党代表になってからの采配ぶりは、前原や労組などの「生徒会政治」を脱却し、党内権力の振るい方に安定感をもたらした。


民主党に興味などなかったわたしにも、その可能性を感じさせて、政権交代は日本政治史の中で初めて民主革命に匹敵する展望を開くかもしれないと思わせるに至っている。


その政治活動に金の問題は纏わりつくのであって、政治資金が政治家の評価をきめていくのではない。原因と結果の順序が逆なのだ。
このような自明さも忘れて、自民党の巨額献金には触れずに、小沢だけに「悪徳」のイメージ操作がなぜ効を奏してしまうのか?


それはかつてロッキード事件田中角栄、闇献金金丸信に親分と仕えた金権政治家の末裔だという、単なる「状況的証拠」によるものである。
確かに、大衆もバカな言論人もイメージに弱いことは認めよう。


しかし、これは繰り返されてきた問題であり、知識や言論で禄をはぐくんでいるプロなら、戦前戦後の日本の政党政治の構造的分析にまで掘り下げた発言があってしかるべきだと期待したが、見事に見当たらなかった。


その中で、三上治氏の論考(メールマガジン)を大学時代の先輩から入手することができた。わたしの期待していた唯一無二の論考である。立花隆批判を介した現代日本政治の金権問題を、見事に剔抉している。

三上治氏の許可を得て、少し長いが全文掲載する。
(なお、この論文のコピー転載は著作権法により禁止します。)

 小雨降って地崩れず――長めの論評
                                            三上 治
                                            5月17日

(1)
もう大分前のことであるが、毎日、新聞を丁寧に読むことを日課としている人のところをよく訪ねていたことがある。僕よりは年代がずっと上の人で、昭和3年(1928年)に旧制一高に入り、昭和5年(1,930年)には左翼運動に連座して放校になった人だった。大正から昭和初期に青春を送った骨太の知識人(インテリ)というとぴったりの人だった。長い獄中体験もあれば、中国大陸での生活経験も有していて話はおもしろかった。本棚にはヘーゲル全集から、『臨経録』などの仏教書に至る哲学、宗教、経済の本があったし、マルクスレーニンの全集も揃っていた。僕は図書館として利用させてもらっていたが、新聞を読めば世の中のことは大体のところが分かるよとよく言っていた。この時は、ピンとこなかったのだが、時折、この話を思い出している。僕はまだとてもその域には達していないが、そうなったらいいなと思って丁寧に新聞を読むように心掛けている。

 連休明けの新聞を飾っているのは小沢一郎の辞任問題であったが、民主党の新党首に鳩山由紀夫が選ばれて一見落着のように見える。これからは衆院の選挙に向かうのであろうが、小沢一郎の秘書逮捕から小沢辞任にいたる一連の動きを論評しておきたい。結局、この事件の持つ意味が深くは理解されず、あっという間に忘れさられるかも知れないと思っているからである。この事件の評価として一般的に流通しているもの、主としてマスメディアで流されてきたものに、僕は異論を持ってきた。それについては何度も論評として公表もしてきたが、それも含めて、改めて検討したい。今後の政治的動きを判断する場合に参照にはなると思えるからだ。今後、この事件を想起する必要のある政治的場面は訪れると思えるからだ。


問題の発端は西松建設からの献金をめぐる秘書逮捕であったが、この事件の詳細は改めて述べる必要はないだろう。この事件の評価というか、反応は大きくいって二つの流れとして存在していた。当然のことであるがそれは対立していた。この一つは小沢一郎の政治資金の集め方も使い方も不透明なものであり、政治資金の不正な扱いとして検察が摘発するのは当然の行為とするものであった。政権交代を前にし、政治的影響を懸念する声もあったがそれは無視された格好になった。そして小沢一郎の政治資金の処置は田中角栄の方法を踏襲する古い政治体質の系譜にあるものだとされた。また、小沢一郎批判は政治手法の問題、例えば、党の運営方法まで広げられてきた。民主党も小沢の支配力を脱し切れない存在とされていた。彼らの批判の正当性には小沢の政治資金の説明に世論は納得していないということが利用されていた。この評価は基本的には田中角栄の政治を金権政治として批判してきた流れにあるものと言えるだろうと思う。


これに対して、もう一つの評価はこの事件を、政治資金問題を口実とする不当な政治的な介入〔弾圧〕とするものであった。検察の行為を政治資金規正法に反する行為の摘発ではなく、別の政治的目的を持った政治的弾圧の一種と見るものだった。検察の正義観の問題から、政権交代阻止の意図まで幅があったが、小沢一郎の検察に対する反論に同調する動きであった。辻元清美田中真紀子が秘書給与問題で逮捕されたときも検察の行動への異論や懸念は存在したが、それは小さな声でしかなかった。今回は「国策操作」以上の検察権力の暴走であり、これを許すことは民主主義の根幹に関わるものである批判が強く出てきたのが特徴である。これはある意味では田中角栄ロッキード事件以来の検察の動きに対する批判の集約的な表現であったといえる。検察とマスメディアが二人三脚で進めてきた金権政治批判(政界の浄化論)に異議を申す声が強かったのだのだといえる。


今回の事件は政権交代を帯びた衆院選挙が近い時点で起きたものであるからこの事件の評価を複雑なものにしてきた。参院選挙において野党の勝利を導いたのは小沢一郎であるという評は浸透していたから、小沢一郎民主党による政権交代を期待していた向きは小沢の検察批判に同調した。他方で民主党の支持率が上昇するのを焦っていた政府や与党筋はこれを歓迎した。自民党や与党は民主党への国民の期待が萎むことを喜んでいたが、彼らの独自の見解はなく、そこでは政治能力の衰退を示していた。結果的には検察とメディアの小沢一郎批判(つぶし)が奏功し、自民党を利したように見えるが自民党へのつけはこれから利いてくると思える。


(2)
 この事件を検察やマスメディアに同調するかたちで論評していたのは立花隆である。彼はロッキード事件で検察とマスメディアの側に立つ論陣を張っていたが、今回もこの構造は変わってはいない。小沢辞任後の13日の朝日新聞への寄稿の中で立花隆は次のように述べている。


「ほんのちょっと前まで、今、選挙をやれば、民主党による政権獲得はほとんど確実といわれていたのに、と思う。なにがこれほど大きな状況変化を短時間の間にもたらしたのかといえば、西松建設問題が持ち上がってからの小沢の対応に示された古い政治体質と、そのような小沢に支配されたままでいる民主党という党の体質に、みんな嫌気がさしたからにというほかあるまい」(5月13日付け朝日新聞朝刊)。


これは立花隆のこの事件に対する評価であるが、それは大方のマスメディアが繰り返しやってきた評価である。なるほど、予想以上の不人気で選挙を延ばさざるをえず、そうすればますます人気は低下するという悪循環は麻生内閣を襲っていた。麻生内閣の支持率低下と民主党の支持率の上昇は対応していた。この期待度は自民党の人気低下からくるもので民主党の主体的なところから来ていたものではなかったから、政権獲得が確実であったか、どうかはわからないものである。マスメディアが勝手にそのような予測を立てていたに過ぎない。この種の予想は直ぐに変わる。あっという間に民主党の支持は上がるかもしれない。


民主党の主体的な契機は参院選挙における小沢一郎の政策(政治的構想)や言動の中にしかなかったが、これがどの程度まで民主党内で血肉化したものであるかの疑念は政治的な判断能力のあるものには持たれていたし、それを危ぶんでいた。小沢一郎にはよく分かっていたのではないだろうかと推察できる。彼が福田首相との会談で大連立という幻想に色目を使ったこともこうした事情があったのではないかとさえ思える。民主党への期待度は小沢一郎幻想というべきものに依っていた。今回の事件が偶然的なものであったか、意図的なものであったかは別にしてこの小沢幻想を直撃するために政治資金問題を使ったことは明瞭であった。この事件を批判さるべき当然のこととみるか、否、そうではないというのかは小沢一郎の政治をどう見るかの政治的見識にかかっている。
参院選挙から政権交代をめざす中での、小沢一郎の構想してきた政治をどう評価するかが分かれ目をなしていたのだと思う。


ここで立花の指摘しているのは小沢の政治が古い政治的体質の政治という見識であり、マスメディアの合唱してきたものである。後で、紹介するが小沢に対する繰り返えされるこのような見解に対して、別の見方も存在する。この古い政治的体質とは何か。立花はこれについて指摘している。


「小沢は記者会見で、政治資金問題で質問した女性記者をグイとにらみつけ<私は政治資金の問題についても一点のやましいところもありません>と大見得を切って見せた。そういうにらみつけで記者を威嚇することも。大見得も、テレビ時代の今日まったくの逆効果にしかならない。それが、この人は理解できない。古い古い政治体質の人なのだ。小沢は田中角栄金丸信を政治家のモデルとして自己を形成してしまったために、彼らの政治スタイルと政治感覚が骨の髄までしみついている。だから、何かというと、角栄、金丸的な強権的威嚇調が顔を出してしまうのだ。女性記者を威嚇する場面を見ながら、ああ、この人はもう政治の表舞台から退場すべきときに来ていたのだな、とつくづく思った」(前同)


僕も記者会見を見ていたが、別段、女性記者を威嚇しているようには見えなかった。記者会見でトンチンカンな質問しかできない記者にいくらかぶっきらぼうに答えたところで、それは古い政治体質とは何の関係もないというのが僕の感想である。立花には小沢を田中角栄の系譜に連なる古い体質の政治家であるという先入観があってそのように印象づけたいだけではないのか,と思う。政治資金の具体的問題として論じるのは避けて、威嚇というように印象批評の手法をとっただけである。別段、威嚇でも何でもないと見える部分もいたわけだから、よほど、強力な先入観でもないとこういう発言は出てこないというべきだろう。角栄との類似も政治体質のマイナス面で印象づけることが目的であるかのようにすら思える。彼は田中角栄批判以来、流通してきた金権政治批判を疑わず、それが古い政治体質批判として通用すると思っているだけではないのか。彼の方が検察やマスメディアに同調しているだけで、ある意味では古いのである。


僕は立花の田中の金脈の暴露や政治資金の入口(集金方法)や出口(使い方)を浮き彫りにしたのは面白しろかったと書いたことがある。政治家の政治資金の獲得方法についてはじめて本格的にメスをいれたのだからである。彼はまたロッキード事件での論陣を張りながら田中政治に対決していた。僕はその時に疑問を感じたことがある。その一つは彼自身が「政治と金」についてどのような見識を持っているのかということである。金権政治家として田中角栄を批判することに含まれる欺瞞に気がついているか、どうかである。そして、もう一つは田中角栄の政治力を政治構想や彼の政治的見識という点できちんと評価しえているのか、どうかであった。僕は田中角栄を戦後の日本の政治家としては一か二を争う存在と見てきたがそれは彼の政治的構想力や見識から来るものである。政治資金の問題とは別のことであり、金権政治家という通りのいいイメージで彼を葬り去ったことに疑念を持ってきた。検察やメディアの政治的見識は通りがいいが、そこには欺瞞を含まれていると思う。


金権政治家ということが欺瞞的なところを含んでいるとはどういうことであろうか。金権政治家というのは政治権力を利用して私腹を肥やすか、それを目的とする政治家である。さらに政治権力を金力で買う、あるいは金力を政治的武器として使う政治家のことである。日本の保守政治家の中に存在するものとして指摘されてきたし、立花によれば田中角栄はその典型的な人物であつた。井戸塀という言葉はこの対極にあるものである。政治活動の資金をつくるために屋敷までも人手にわたり、井戸と塀しか残らない政治家像が井戸塀という言葉に含まれているからである。金権政治家は悪徳政治家と道義であり、そうしたイメージで語られてきた。僕は子供のころ、親父が購読していた『実業の日本』という雑誌を読んでいた。そこでは鶴見祐輔鶴見俊輔の父親〕や池田潔が保守政治の利権と結びつきを批判し、政界の浄化を提起していた。そのように記憶している。イギリス流の民主主義を理想としながらクリーンな政治(綺麗な政治)を説いていたのだ。これは日本の政党政治汚職と呼ばれる利権と結ぶ構造を批判していたのであるが、共感していたような記憶がある。日本の政党政治、とりわけ保守の政治家が利権と結びつきやすい構造にあり、これは政財官の癒着の構造として批判されてきた。ただ、僕は田中角栄の金脈問題やロッキード事件の裁判を見ながら、また自分の政治的経験から「金と政治」の問題をもう少し別の角度で見るようにもなった。利権獲得を目的とする政治家への批判は当然であり、とりわけ政治権力の担当の側にある政治家のそうした行為は法的にも贈収賄の対象としてある。ただ、「政治と金」の問題をもっと現実的に考えるようになったところがあるのだ。


政治活動の中で金が問題になるのは、政治活動は金を消費するだけであって、生産(金を得るための行為)ではないことを根底にしている。これは宗教活動と構造は同じである。この政治資金の獲得は何らかの見返り(利益)と結びつかない個人の献金によるのが理想であり、その使い方は透明であることが理想である。だが、現実の政治資金の構造的な問題はこうしたことからほど遠いところにあるといえる。何故だろうか。これは日本の政治的環境(土壌若しくは伝統)によるものであが、個人が政治献金して政党や政治家を支える社会的な基盤は弱いのである。諸個人は政治のために献金するというよりは、政治からバラマキ的な施しを受けることが祭りであり、政治であるという伝統に長くあった。アジア的な共同体の伝統であったといえるし、社会も貧しかったと言える。これは日本社会での政治的なものの存在様式ということで考察できることである。


そうであれば、政治的献金の多くは団体献金や資産家から献金に依存するという要素が強かった。多くの政治家はその資金を個人献金によって賄われないための困難性の解決として団体や資産のある部分に頼るほかなかった。あるいは資産のある人が政治家になるという道も多かった。政治献金の問題は究極の解決形態は明瞭である。そこにいたる過渡的段階をどうするかということが問題である。僕がここで金権政治批判に含まれる欺瞞性ということを指摘するのは、この過渡的段階のことを考えるからだ。法的に企業や団体からの献金を禁止しても、金権政治批判〔クリーン〕な政治を言葉として流通させても、現実に個人的献金が実体化されるのでなければ、その矛盾は抜け道をつくりだすことで処理される。法や倫理批判の網をかぶせても、現実的解決の方途が提起できなければ、現実を隠蔽した理念だけが通用する。現実的解決は抜け道になる。これが現実であると思う。個人の献金が中心になるまでの間の過渡的処置を構想するより道はないし、そこでは政治資金規正法のようなルールに則って問題を処理するしかない。現実的に抜け道をやっている政治家の金の問題を検察権力や国家の恣意的な政治支配の武器に使われてはならない。マスメディアの金権政治批判はそれと合唱するとき、権力の恣意的な政治支配を支えることになる。


今回の小沢一郎献金問題はそれが「あっせん利得罪」などにならない限り、法的には問題にならないものであり、この問題を拡大して扱う必要のないものである。政治資金の使い方など、説明のいらないものだ。田中角栄問題以来、日本では金権に敏感になる政治的意識が広がった。これは検察とマスメディアが二人三脚で広めたことであるが、これが政治活動における金の問題の欺瞞のない解決を提示するものであったかと言うと疑問である。政治活動における政治資金の処理に現実的で合理的な解決を提示している、と思えないからである。金権政治という観念だけを広め、その批判を正義としたにしても、それとは離反したところで、それを隠蔽したかたちで、政治資金の問題が処理されているのが現実である。金権政治批判が政治家の政治生命を絶つように検察権力やマスメディアで使われるのなら、その概念にもっと敏感になってもいいのである。辻元清美田中真紀子の秘書給与問題での検察やマスメディアに言動に僕は違和を持った。当時、これについてのコメントを書いていたが、「政治と金」についての通りのよい言葉が問題の本質に迫ることを妨げていた。


金権政治批判の起源は戦前の日本の政党政治批判にある。政党政治家は私利私欲にまみれて腐敗しているという政党や政治家批判が盛んに流された。これは軍部や右翼運動、あるいは左翼運動から加えられた政党政治への有力な批判であった。天皇中心の清潔な政治という幻想は私利にまみれた政党政治という批判と表裏の関係をなしていた。軍部や右翼や天皇の官僚たちから流される政党政治家像はファシズム〔強権政治〕を準備していくために、彼らの抵抗を排除するのに役立ったのだ。戦前の政党政治が遭遇した問題は政党や政党政治家が政治資金の獲得において、個人献金など基盤のないところで陥った問題であり、これは戦後もある意味で続いてきたし、特に保守政党においてである。革新政党労働組合という団体に依存することで、組合支配という問題を生んだ。革新政党市民社会に基盤を持てないために組合依存になったのか、組合依存のために市民社会に基盤を持てなかったのか、これは循環的問題であった。共産党公明党は政治家の政治資金を党が保証するが、政治家はそれと引き換えに党に従属すると言う問題がある。金で党に縛られるのである。政治家の自立ということが問題になる。


政治活動のための政治資金獲得には困難な問題があるし、重要なことだが金権政治批判では処理できないし、そうした名目での政治家を葬りさることを警戒すべきであると思う。日本の政党においては官僚に基盤のない党人政治家と呼ばれてきた人たちの政治資金獲得が批判の対象になったし、田中角栄はその象徴的存在であった。ある意味で田中角栄は官僚的基盤のないところで政治力を結集するほかなかったがために金脈を作ったが、そのために彼は官僚政治の側から報復されたところがある。立花がロッキード事件で検察の側に立ち、マスメディアと二人三脚で批判的論陣を張ってきたのは官僚の側の田中批判に加担してもいたのである。


(3)
 今度の献金問題でマスメディアは小沢一郎への何年間にわたる政治献金が巨額であることを示し、その説明を求めていた。巨額と言っても何年間かで数億円程度であり、その使い道を改めて説明する必要があったのかと疑問に思う。政治資金の使い方を記載してあるものが公開されている以上はそれでいいのではないだろうか。民主党の議員総会の中で政治資金の使い方の説明を求めた近藤洋介議員を立花は取り上げていたが、おかしいと思う。政治資金の使い方は特別に説明する必要がない。それは政治機密も含まれているからだ。僕は政治の中での金の問題は重要であると思うが、それ以上に大切なのは政治的構想の問題であるとも考えている。立花は小沢を古い政治的体質の持ち主と批判することでことを済ませてきたが、この間に小沢の提起してきた政治的構想の問題について言及したことがあるのか。金の問題で政治家を葬り、その政治的可能性を絶つのは犯罪的行為ではないのか。彼に田中角栄の批判がそのように機能したことへの反省はないのだろうか。検察やマスメディアは彼らなりの正義観に立っているのだとしても彼らの政治的見識は間違っているのだ。立花と同じ欄に寄稿していた同志社大学大学院の教授である浜短子はこの問題をつぎのように指摘している。


 「記者会見に際して小沢氏が読み上げた文書に次のくだりがある。『<国民の生活が第一>の政治を実現して。経済、社会を根本から立て直すこと。そして、政権交代によって、日本に議会制民主主義を定着させること。その二つが民主党に課せられた歴史的使命であり、私自身の政治家としての最終目標にほかなりません』。これはなかなか立派な認識だ。本人の本音や魂胆はどうあれ、まさしく、このことのためにこそ、この人はバッドペニーとなって、繰り返し繰り返し、我々の前に戻ってきた。そういうことだったのではないか」(5月13日朝日新聞朝刊)。


 彼女は小沢にイメージとして課せられたものをバッドペニー(悪貨)という言葉を使いながら、それと小沢の政治的構想の関係を析出している。日本が直面している政治的問題は外交分野、社会政策の分野、権力運用の分野の三つがある。小沢のこの政治構想は後者の二つを指しているが、簡潔だが優れたものだと思う。現状の政治的構想としてはである。これは参院選挙における民主党の勝利から政権交代に向けて練り上げてきたものであり、それなりに考え詰めてきたものであろうと思う。小沢一郎民主党内での影響力はこの構想によるところが大きいのだと推察される。国民の生活が第一というのは大きくいえば社会民主主義政策であるが、議会制民主主義とともに困難が伴うことは明瞭である。何故なら、この二つともそれを実現に導く国民的基盤が弱く、これに対抗的な国家官僚や企業官僚の力が強いからだ。これはその志向性を示したに過ぎないと現段階ではいうべきであろう。でも、それだけで既存の権力側を怖れさせていることを考えればその方向の重要さもわかる。民主党の問題は党員、とりわけ議員や候補者たちがこういう政治構想をその実現の困難性も含めて認識しているか、どうかにある。政治的構想力を主体的に有しているか、どうかにある。政権交代の風が吹くことに一喜一憂しているようでは仕方がないということである。僕はこの点については何度も論評してきたのでここでは繰り返しはしない。


最後に一つだけ言えば日本で議会制民主主義が定置するか、どうかは明治維新以来の日本の近代政治の問題がかかっているし、世界的な経済危機の中で国家による救済ということが前面化しているが故に重要だということだ。国家による救済が官僚の力を強めるように作用したとき、国家的強権政治が出てくる。今回の唐突に見えた検察の小沢秘書逮捕劇に対して多くの人が権力の議会制民主主義と反する方向であると反応したのは当然である。民主党の内部の混乱は彼らの政治的構想の弱さをさらけ出したのであるが、議会制民主主義の実現が困難な問題であることをどの程度理解しているかをあぶりだしもしたと言える。国民の声に耳を傾けることは大事だ。しかし、マスメディアの煽る世論なるものは信頼せずともよい。国民の声と世論を峻別する政治能力が民主党員には求められているといえようか。