『國文学』廃刊、「特集俳句」に予感

月刊『國文学』(昭和31年創刊)が廃刊になるらしい。小谷野敦氏のブログで知ったのだが、やっぱりな、という感想だけだった。

論座』、『諸君』、とそれなりの雑誌の廃刊が続いたが、『國文学』ももちこたうられなかったようだ。


といいつつも、別に何か世話になったとか感銘を受けたという記憶もないし、別に熱心に読んだわけでもないがなぜかわたしの青春期にいつも身近にあった。


父親が高校の国語教師であったため多分定期購読していたのだろう。いつも机上にはこの雑誌があった。また、今日思想的にはやさぐれてしまったが、わたしの人生の師ともいうべきひとがやはり国語教師で、彼の周りでもこの雑誌をよく見かけたように記憶している。


だから、ほとんど買ったことがなく、多分初めてといっていいのが、先ごろの12月号臨時増刊号「特集俳句」である。


買って中身を一瞥して、こりゃダメだ、と思って読むと、やはり確かにダメだった。
そのときちょっと感想をこのブログにも書いたが、編集部が俳句の現状をよく解っていないし、構成の仕方からして誰かに企画内容を丸投げしているようにも思えたからだ。


一言でいえば、目新しさも何も無く、その辺の結社誌や同人誌の抜粋程度でしかなく、まして角川の『俳句』他の商業誌には及ばず、どうみても中途半端なのだ。
「俳句ふたり俳論」など何の意味があるのか。
編集後記に「俳句作家を個として捉えることに慣れきっている事態に衝撃を与えるため、もう一つの異なる個をぶつけてみたらどうだろうということでした。」とよく意味の解らないことをいっている。


いまさら個として捉えることに慣れて何故衝撃を与えるのかよく解らない。問題は個が個として内在的に俳句観を捕まえることが困難になっている、ということが問題で、近代俳句はあくまで個の成立と相即的であるのは自明ではないか。
お互いの作家の個性を析出するなら、別にひとりの作家論の中でじっくりやればいいだけのことだ。こんな結社の中で、同人相慰め合う機能しか果たさない「ふたり論」などは邪道だろう。


寄稿者も齋藤愼爾氏以外は読むに耐え得ないものばかり。寄稿者の選定もいかにも俳壇秩序の中で遊泳している「俳壇雑誌芸者」やさしたる評論も書けぬのに結社や師系の政治的後継者と「世間的に思わせている」ひとたちが半分を占めている。


これでは読者はついてこない。
小谷野敦も指摘するが、もうこういう専門誌は投稿という方法しか鮮度を維持しようがない。特に批評などは、書く人間の内的必然性に支えられていない文章は読むものが読めば腐臭に満ちていることがハッキリしている。


かつての吉本隆明の私誌『試行』は緊張に満ちて最後まで惜しまれて廃刊になった。あれは確かに投稿だけで成り立っていた。
商業誌のポジションと同人誌のポジションを錯誤して「匿名批評」をしてみたり、とにかく作家の劣化とともに編集人の劣化も激しいから、専門誌の廃刊はこれからも続くだろう。
まして俳句などという奥行きの狭い文芸では。