■「命」連発鳩山総理は、「命」をかけよ!−浜矩子の『時評2010』

われらが「のりちゃん」、浜矩子さんが今月もわたしたちの気持ちを見事に代弁してくれてい嬉しい。「中央公論3月号」、時評2010『政治とカネと政治家の命』。

のりちゃんは、鳩山政権のふがいなさを嘆き叱咤激励している。

のりちゃんは、毎日飛び交う「政治とカネ」というフレーズをみると、「政治とか、ね」と読めてしまうと皮肉っている。確かに、爆笑だ。

つまり「政治とか、ね」というこの言葉の耐えられない軽さは、とりもなおさずは鳩山政権をはじめ、与党の重みがない民主党や野党なれしていない自民党など、政治家の軽さが思わず誘引してしまう言葉だといっている。


昔、16世紀のカトリック司祭トマス・モア卿は、ヘンリー八世が自ら英国国教会の首長に就こうとした時、俗世の君主が教会の聖職を兼務することに反対し、家臣でありながら国王に対して、断固として遠慮会釈なく批判を加えた。

そのためトマス・モア卿は命を奪われることになったのだが、「政治とか、ね」程度の政治家はこの聖人を見習って欲しいと、のりちゃんは苦言を呈する。
ちなみにのりちゃんは、クリスチャンである。

そして、トマス卿の生涯を描いて1966年アカデミー賞を受賞した映画『わが命つきるとも』を挙げて、この不朽の名作のタイトルをかみ締めて権力の手前勝手を許さない信念の政治家を期待するのだ。

もちろんこの情景を想定しているのは、鳩山&小沢一郎事件だろう。
特に小沢には、彼が高野山で「キリスト教など一神教は排他的である」という発言を「政治家の無知」として糾弾した経緯があるから、のりちゃんの中には政治家の知性の低さに日頃から癇に障るものがあったのだろう。

のりちゃんの白眉の結論部。

鳩山総理大臣がさに行った施政方針演説を思い起こして頂きたい。その冒頭で、彼は「命を守りたい。命を守りたいと願うのであります」と言った。さらに続けて、「働く命を守りたい」とも言った。

さらには、「世界の命を守りたい」とも、「地球の命を守りたい」とも言った。そした平成二十二年度予算を「命を守る予算」と命名するとまで宣言した。

この命連発演説、聞いていてなかなか気恥ずかしくはあったが、そこに込められていた思いは悪くない。紋切り型の所信表明から、抜け出そうとした気概も解る。
だが、欠けていたものが一つある。

それぞまさしく、自分の命に関する言及である。
人の命を守りたいのは、大いに結構だ。だが、人の命を守るためには、我が命尽きるとも屈しない覚悟はあるのか。そこを語らずにしての命連発は、単なる願望の表明に過ぎない。

今からでも遅くない。命連発首相には、守護の聖人*1の命がけの生涯を是非とも勉強してほしい。

確かに鳩山総理のお坊ちゃんとしての人柄の良さは感じても、発言の一語一語に他人事のような、仕方なくやっているような響きを聞き取ってしまうのはわたしだけだろうか?

本当は万年野党で、ファッションショーとかお客様のもてなしだとか、エンジョイライフが身にあっているのですと弁解しているような。

そういえば、どうしてもやりたくて総理大臣をやっているわけではない、なんてこともこれまた他人事のように仰っていましたっけ。

少々マニフェストから後退してもいいですが、人の心を弄ぶようなことだけはしないで頂きたい。
普天間基地は断固として県外へとお願いしておく。

*1:聖トマス・モアは政治家の守護神とされている