さて、立山の山開き(4月17日)は、前日の嵐もやんですばらしい快晴に恵まれた。
残雪というにはあまりの雪の量に圧倒され、わき道にそれると膝まで埋まった。
北アルプスの連峰が美しく光り、人間界の猥雑さと日本人のアイデンティティを喪失した政治の狂騒を一瞬忘れさせてくれる。
この神々しい日本の風景をみて、アメリカにばかり阿る愚民はもう一度日本人の勇姿を取り戻してみろとなにやら日本浪曼派のような気持ちになる。
ただの浪漫派はこの字だが、日本浪曼派というときは曼の字だから間違わないように。
鳩山内閣ないし民主党の支持率がさがろうがどうということはない。
選挙で参議院が過半数とれないという結果が予想できるにすぎない。
普天間移設問題が、混乱や混迷などとCIA派は騒ぐが、そうではないだろう。これは、歴代政権が沖縄県民を金や交付金でなだめすかして犠牲にしてきたことに、いくらかでも痛みを感じて、沖縄県民の基地はもう沢山だという気持ちに添った解決策をみつけようという、画期的なベクトルのなかでの苦悩であるということだ。
政治、という概念がpatronage politicsの意味でしかなかったものを、少なからず、民の幸福という視点で考えてみようという政治に転換させる予兆として受け取ることができる。
長い自民党政治の終焉は、実はこの政治概念の転換にあったはずではないのか。
いまわたしが信頼できるのは、どのような民意をも強圧的に押さえこんで、スムースに決めることでも、5月までに総理があわてて決め込むことでもない。
まさに、県民の気持ちに添い続け苦悩すること自体である。その苦悩こそが、いままでの官僚やお上が口先で国民のためにと言ってきた常套句の空虚さを撃ち抜き、信頼できる当のものなのだ。
先にも書いたが、これはアメリカとの準戦争である。
沖縄県民を圧殺して、日本人として防衛を語るなかれ。
理路として当然そのような者は日本人ではないからだ。
問題の本質はなんどもなんども言うが、他の政治家が一丸となって沖縄県外の自分の選挙区へ移設しようといわないことだ。
唯一橋下知事ぐらいのものだった。
鳩山総理に問題があるとすれば、いきなりは無理だとしても、段階的に全てアメリカへ移設してくれという交渉がセットで準備できていない点である。
いずれにしても、全てのステイクホルダーがベストなどという着地点はない。
再び、沖縄県民に負担を強いる場合でも、その道筋をきちっとアメリカ側と交渉することが最大の条件である。
かつての成田空港のように、自民党と官僚が一言の地元農民への説明もなく設計図を描いた暴政に比べれば、鳩山総理の苦悩ははるかにマシだといえる。
アメリカに阿る擬似日本人が、早く決めないとアメリカから不利益を受けるなどと根も葉もない恫喝をしているようだが、そのときは沖縄県民と一緒に不利益をこうむればいいことだ。
沖縄県民だけに不利益をこうむらせて自分達だけヌクヌクいい思いをしようなどと誰ができようか。