中島岳志「保守と右翼を考える」(中編)

以下中島の講演要約。

保守とはなにか?
保守だけで定義することは難しい。その理由は後で述べるが、保守の定義をするに当たって左派とは何かから話す。

左派とは、理性的な努力によって社会における人々の平等を勝ち取っていこうとする考え方。
つまり人間の近代理性に信を置いているのが特徴である。

この左派と括られる中には、いくつか実現手段の違いによって差異を形作っていて、その区分のキーは<国家>の取り扱い方にある。

もともと近代社会の成立は、均一な国民と国家が前提とされ、左派はこの国家を前提としている。従って、ナショナリズムが原理的には左右の区分けにはならない。

近代特有の考え方は、ナショナルミニマムをつくっていき国家を通じて平等社会をつくろうという点にある。
従ってフランス革命までは、国家は王権神授説にも解るように神から王に授けられたもので、国民のものとは考えなかった。

①国家を通じて平等社会を造る。
   マルキシズムなど
②国家(抑圧装置)を無くして平等社会を完成させる。
   アナキズム市民社会重視派など

いずれにしても、左派は国家を重視して、あるいは媒介していく考え方といえる。

では右派とはなにか?
人間の理性は信頼できるのか。理性は信じられない。不完全で過ちを犯していくのが人間である。
一部の人間が理性によって社会をコントロールできるなどということができるのか、と懐疑するのが右派である。
これは歴史上出現した共産主義のその理性主義を批判した。

ではナショナリズムは右派特有のものか?
そうではない。

ナショナリズムが定着したのはフランス革命からであった。
革命派は、王権神授説に対して国家は国民のものであると唱えた。
このとき、いわゆるNation-Stateは革命派(左派)によって確立された。
「一定の国境線によって括られは地域に居住する人は平等な主権者である」という定義である。
「Nation=国民=平等の主権者」という定義は左派の主張なのである。

例えば日本では亜細亜における民族独立を支援したのは(筆者註:自由民権運動の流れをひく)主に左派であった。

丸山真男ナショナリストたらんとした。
なぜなら、民主主義は均一な国民をもってしか成立しないからである。その国民は近代的国家を前提にしている。

丸山の関心の中核は、ナショナリズムを否定しているのではなく、戦前の往きすぎたウルトラナショナリズムの批判的検討なのだ。

明治維新から自由民権運動を通過してウルトラナショナリズムに行き着いたのだが、明治期には健全なナショナリズムがあったではないか。
それがなぜウルトラナショナリズに陥ってしまったのが。これがテーマである。

従ってこのように、ナショナリズム自体が左右の区分けの指標にはなりにくい。

60年安保闘争における竹内好などは「下からのナショナリズム」という視座を提起して、
「上からのナショナリズム」を推進した岸信介(自民党)に対抗した。
西部邁は前者の立場で運動(筆者註:全学連主流派)し、その後後者の立場へ転向した。

では保守とはなにか?
(筆者注:中島は右派と保守を同義に使っているようでいてニュアンスが少し異なっているようだ)

保守という立場は、エドモンド・パークを始祖とする。近代保守思想の原点と称される。
フランス革命についての省察』において、近代理性への懐疑を提示。フランス革命派のように、理性と進歩を信じるのは虚偽である。このような革命は必ず絶対的な独裁者の出現を許すことになるだろうと述べている。

事実、フランス革命はナポレオンという独裁者を出現させた。

現在、保守の定義をすると次のように言える。
人間の理性は万能ではない、だから人間の慣習や過去の経験値に重きを置いて徐々に改革することの方がいい。そのためのみんなの合意を取り付けることが必要である。

これは人間は間違いをし続ける存在であり、人間社会は不完全である、というある種の諦念を基礎としている。

過去に人間が作った社会が不完全であるという認識は、従って過去の事象をただ守るということを意味しない。逆に不完全であるがゆえに絶えず現状を点検して改革していくことが必然の要請とされるのだ。

エドモンド・バークには、「保守するためには改革しなければならない」という名言がある。
以上から、保守は反動復古にはなりえないのである。漸進的変革ということ。

保守は、左派のように明確に(筆者註:原理的体系をもって)これが保守だと定義しずらい。
その時代状況にどう適合するか、確信的な思想を持たないので断定できない。過去の経験値に照らして合意形成して、その時代の適合的な回答を出していこうとする方法だからである。

右翼とはどういうものか?

まず理性を信じていない。
人間の計らいによって理想社会を作ろうとする。

過去のある時点に理想主義社会があったとみなす。その時代に時間を戻して理想社会的再現を図ろうとする。
原点主義、原典主義、減点主義とも言われる。
だからかなりやっかいな考え方だ。

例えばイスラム原理主義がそうである。
いまの社会は腐っている。ムハマッドの時代が一番良かった。そのムハマッドの清らかな時代に戻ろうという。

なぜ穢れた時代になったのか、それはキリスト教徒の作る白人帝国主義国家が阻害しているからだ、除外抹殺すべきであるという運動になる。

日本では江戸時代に興った国学がそうである。
日本はもともと萬世一系の天皇を中心とした国柄であった。そこでは「大和心」が大事で、それが排斥されている。

どうして排斥されたかといえば、中国から移入し模倣した思想「唐心」が日本へ定着したためである。もう一度万葉の天皇と日本人が清らかに住んでいた時代に戻さなければならない。
などといって和歌なんかを盛んに詠むわけだ。

ここから右翼運動は、天皇の大御心によって「大和心」をもって世を治めなければ成らない。
小ざかしい理性を捨てて、崇高な「大和心」を基礎にした民族共同体を作ろうとする。

そもそも、なぜ天皇の大御心による治世になっていないのか。
本来、太陽=天皇が、大地=民衆を光=大御心で照らしている。それなのにこの光=大御心をさえぎっている者らがいるため、大地=民衆に光が届かず民衆が困難な目にあっているのだ。

従って、さえぎっている者らを排除して光が当たるようにしなければならない。このさえぎる者らを、「君側の奸」と呼び暗殺を合理化する。

戦前の井上日照の血盟団事件、「一人一殺、あとは天皇にお任せする」という非常にむつかしい連中である。

ただ北一輝だけは違う。彼は革命と革命後の社会のプランを明示していて、むしろ左翼的革命論に近い。天皇を利用して革命をするという思想だ。だから北一輝研究は従来左翼側が沢山研究書を書いている。

以上から、右翼は次のように定義できる。
天皇の大御心を邪魔する「君側の奸」を排除(暗殺)して、心のピュアな結合によって天皇主体の共同体を作る。

大まかな現代政治の流れの原理的な側面を押さえたが、現今の政治状況をどうみるか。

(つづく http://d.hatena.ne.jp/haigujin/20100525/1274769533)