新自由主義への流れを整理する。
もともとがリバータリアニズムという考えに発する。
自由を妨げるものを排斥していけば平等社会ができる、という説。
ここでは自由と平等はアンビバレンツなものとして前提されている。主な説は以下のようなものがある。
1.アナルコキャピタリズム(無政府資本主義)
政府などは不要である。市場にすべて任せておけばよいと考える。2.最小国家論
ノーズィックが唱える。
国家は最小限の機能だけでいい。例えば警察と消防署のような公共的な組 織だけで十分である。これらを経過して、新自由主義に至る。
つまり、簡単に言えば平等ではなく自由が大事なんだということ。小泉構造改革という新自由主義に国民も左派も熱狂して支持した。
そのころ中島は批判的言説を発信していたのだが、見向きもされず白眼視された。特に左派はなぜ小泉構造改革を誤認して支持してしまったのか。
それは単純に国家を小さくしようというところに乗せられてしまった。
大きく二つ誤認した。1.出口が違っていたということ。
左派は自由より平等が大事ということのはず。
それを平等より自由にすることにシフトをきれば、当然諸個人の競争条件の前提が生まれながらにして異なり、能力も違ってくるわけだから格差が当然生まれる。持てるものはさらに持ち、強者はさらに強くなる。
左派は、自由ということばに目をくらまされて、自由がもたらす格差拡大を予見できなかった。
自由は、個人の自由意志の結果として全て自己責任論だという文脈を引き寄せた。2.小さな政府。
いまひとつは、小さな政府にするということだ。
政府事業から民間に外注したり、特殊あるいは公益法人化して、政府が小さくなっていく。
しかし、こうした形態は業務が減っていくだけで、政府系組織である限り国家の管理権限だけは残り、業務上の問題が起きても直接責任を取る必要がないため、肥大化した国家権力だけが残る結果となった。
権限はもっているが責任はとらない。例えばこの極端なものがイラクなどの戦争の民営化である。戦争を民営化した結果、戦場での戦争犯罪を国家が問われない。
この新自由主義によって、肥大化したグロテスクな国家権力が残った。
(筆者注:同時に資本主義で最も大事な中間層を破壊し消費低迷と格差社会を残した)つまり、左派は自由と小さな政府ということばに幻惑されて、小泉構造改革を支持した。結局出口が全くちがっていたということだ。
以上を踏まえ、現在の小党乱立をどうみるか。
4象限に分類できる。縦軸は国家軸、上から下へ<リスクの社会化>--<リスクの個人化>。
つまり国家による社会的セーフティネツトのある場合から、小さな政府という自己責任論のセーフティネットのない社会までを対極に置く。横軸は価値観自由軸、左から右へ<リベラル>--<パターナル>。
つまりリベラルという権力から個人的自由を保つ場合から、パターナルという一定の価値観を国家が強制しようという考えを対極とする。(筆者注:図示できないので象限を想像してください。時計周りに象限設定。)
第1象限(左上) 保守リベラル=与謝野、谷垣(旧宏池会系)
第2象限(右上) 平沼
第3象限(右下) 山田(日本創新党)、橋下
第4象限(左下) 舛添、河野太郎(新自由主義)このような分布になる。
与謝野と平沼はイデオロギーでは対極にあるのだが、今の政治状況では横軸よりも縦軸の社会化領域を優先しようという点で一致した。つまり社会(財政)の建て直しである。
与謝野、谷垣は大平正芳宮沢喜一などの宏池会系で基本的に保守リベラル。学識に定評のある系統である。
桝添は思想的にはリベラルなのだが、あるところまでいくと新自由主義者となるので、中島としては意見が合わなくなる。
河野太郎のグループは、小泉改革をさらに徹底すると言っているので完全な新自由主義である。
山田日本創新党は、かなり右派的で新自由主義傾向が強い。橋下大阪府知事も同系に属すとみなしていい。
渡辺喜美のみんなの党は、官僚問題しか言ってないのでよく解らない党である。
(筆者注:森喜郎清和会別働隊である)中島個人は、与謝野あたりが無難なところかと思っている。
中島個人としては、中ぐらいの国家がいい。理由は高福祉国家のように税金が高くなりすぎするのも困る。
かといってリスクの個人化は社会の崩壊をもたらす。社会をしっかり作ることが大事。地域社会、市民社会をしっかりつくることで、相互扶助の基盤がつくれるのではないか。
それ以上の民主党側に関する発言はなかった。
(質疑応答)
Q1.消費税率は上げるべきか?A.いまの財政からいけばもはや上げざるを得ない。日本の法人税は高いといわれるが、社会保障負担率は先進国ではまれにみる低さである。両方あわせると先進国の平均値。
だからこの法人税が高すぎるという論議には注意がいる。
ただし、物品による消費税率の累進性を導入し、負担の公平性に配慮すべきだ。Q2.検察審査会は問題ではないか?
A.裁判員裁判も含めともに大きな問題を含んでいる。
日本は刑事事件の逮捕率は高いが、不起訴になる率が高い。そのなかで市民参加は状況証拠の取り扱いに大きな意味をもってくる。
(筆者注:物証がない場合、状況証拠で判断せざるを得ない。)
素人が同調圧力を防げるか?という裁判にとって最大の問題を含んでいる。メディアはさんざん有罪キャンペーンをし、それに煽られた世論の圧力に抵抗して適正な判断が個人でできるだろうか?
このメディアも世論もともに「無責任の体系」である。それらに抗して一人だけ反対ができるか?今の時代すぐ個人名などネットで流れてしまうし、脅迫も村八分もありうるだろう、そのとき昂然と個人の信念を全ての裁判員や審査員が行使できるだろうか?例えば山口県光市母子殺害事件など、弁護士は世論の圧力に抗して最後まで弁護をしたが、素人の場合相当のバッシングが考えられる。
今の制度で、そういう問題を防ぎきれるのか?中島個人はとても自信がない。
以上が中島岳志の講演録である。
できるだけ忠実に書き取ったものだが、単語などは若干筆者のものに換えている部分もある。