「戦争法案」と呼んで悪いか?内容に沿って通名での法律は自民党も多用しているではないか!

自民党の小児病的右翼体質が、かつてないほど病理となっている。
福島社民党議員が、議会での質問に集団的自衛権とそれにまつわる法体系に対して、「戦争法案」と呼んだことに目くじらをたっている。
もう冷戦時代の左翼のような因縁のつけ方や、マスコミを呼びつけて説明させるなど査問もどきにはうんざりである。
まさしく右翼の左翼化が政治と社会を劣化させている。

法案など、政治党派である限り、どのような通名をつけようが、実態としての当該の法律が共通に認識できればいいことではないか。
長たらしい官僚の識別手法とは別に、国民は端的に特定できる呼称を要求してあり、不適当であればいずれ廃れるのである。

自民党は保守から右翼に変質したため、デマ、抑圧、威嚇、恫喝、こういったネガティブな政治行為を常態化した。
これは国民の言論機能を劣化させ、メルケル独大統領が述べたように、自由に裏打ちされたアイデアや革新性を疎外し、やがて国家の競争力を失墜させることになる。
安倍政権がいうような「強い国家」とは逆行する行為である。
自民党と支持者は、自制すべきである。

さて、話はあの「報ステ」、あっいけねぇ、名前短縮しちゃったよ。

昨日報道ステーションで、宇野クンがこの戦争法案には基本的に賛成だが、
今の安倍政権の外交では、周辺国を挑発しまくり、けんか腰の外交姿勢で、
とてもこの法律を容認できないと述べていた。

おや以前朝生テレビで軽薄な奴、社会科学はあんまり勉強してないなという印象だったが、
まあいいことを言っていたので、見直した。

今回の戦争準備法案が、実際上いいということではなくて、多分主旨としては今後必要だろうとい意味だ。
ここはわたしと一致する。

つまり、地球規模の戦争をどう失くしていくか、そのためはメタ国家が要請されるからだ。
武力に対する武力は原則的に一国平和主義では行使できない、という国際社会の合意を確立することである。
つまり自衛権の名による個別国家の武力突出を、武力で制圧するという領域は現実問題で残る。

これは市民社会で、警察権を市民から疎外したように、国家間から武力を疎外していく構造を持つ必要はある。

それは現実的には、国連であり、アメリカ一国やEU有志のみの意思ではならず、まして遅れてきた帝国主義中国を野放しにしないためでもある。
そうした覇権国家の一国意思を封じていく構造である。

次に、内容は解らないが、古館が「宇野さんは改憲賛成ですか」と訊くと、
宇野くんは、「賛成です、もっとリベラルに改憲すべきです」と。

これもおそらくわたしの言う、「加憲」の主旨と全く同趣旨である。
護憲派の思考停止と、憲法物神化を厳しく批判しているわたしとすると、若い世代から戦後民主主義を教条化する左派原理主義を乗り越える伊吹を感じて、心強く思った。

「まもる」なんか、すでに空洞化した憲法にたいして、ありえない思想である。
もっとリベラルに「加憲」し、攻撃的に次世代の民主主義を更新しなければ、右翼の「改憲」に負けるのである。

反動は、いつも革新の装いでやってくる、その教訓をもっとリベラル派は噛みしめることである。

若い世代の多様な議論を、歴史は政治プロパガンダ本ではなく、学術本をもとに議論することである。
歴史の本と称して、いま学術書と政治プロパンダ本が併存し、若者は注意が必要だ。
誠実さとは、心地よいデマではなく、事実としての「普遍性」を認め確定していく苦しい作業だということを忘れるな。
ポストモダンは普遍性なんかない、とかいいますが、あるんですよー、フッサール読み直してみなさい。)

軽めの若いオピニオン、宇野くんに期待してみたい、裏切られるかもしれないが。(笑)