憲法の基本の基本ー宮台真司さんの発言から青少年もオヤジも学ぼう

憲法記念日で各党が談話 自民「改正に全力」
(朝日新聞デジタル - 05月03日 05:49)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=3400661


憲法憲法は、国家への国民の意思を書いた「覚書」です。戦後日本には「この憲法でいい」という憲法感情はあっても、国家をどう操縦するかという憲法意思が乏しい。だから何が書かれていても空文化するのです。 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=501

憲法憲法学の「常識」が分かっているかどうかを測る「ものさし」となる、実に面白いツールがあります。自民党憲法草案です。これを読んだ瞬間に爆笑できるかどうかです。この爆笑ぶりは憲法学を超えて人文社会科学系の専門家かいわいで話題です。 https://newspicks.com/news/848868/body/

憲法】日本人の大半は民度が低いので、憲法を法律のいちばんエライもののように思っています。これは100%誤りです。法律とは、統治権力からする「市民への命令」です。憲法とは、統治権力と市民の契約を根拠にした「統治権力への命令」です。 http://miyadaibot.blog.fc2.com/blog-entry-82.html

民度憂国憲法の何たるかを知らない。国家の責務の何たるかを知らない。市民の権利の何たるかも知らない。そんな輩が憲法改正問題をシタリ顔で論じる。 http://miyadaibot.blog.fc2.com/blog-entry-114.html … 『日常・共同体・アイロニー 自己決定の本質と限界』


憲法憲法は、暴政という「悲劇の共有」を前提とした「統治をどう縛るか」についての市民の覚書だ。契約でなく覚書だから、常に記憶と意志が要求される。 http://miyadaibot.blog.fc2.com/blog-entry-139.html … 『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』

憲法憲法統治権力に対する命令です。だから、憲法で男女平等を謳っていても、企業は男女差別をしたってかまわない。憲法じゃなくて、男女雇用機会均等法っていう法律ができてから初めて、企業の雇用差別が違法になるわけ。 http://miyadaibot.blog.fc2.com/blog-entry-19.html … 『われらの時代に』

【社会設計】憲法の何たるかを国民の大半が弁えない。自民党憲法改正案を書いた東大法学部出身を含む輩でさえ弁えない。このような状況では憲法改正のハードルは高いほど良い。 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=1001

【ここは基本】憲法とは、先人たちが社会を作ったときの「統治権力に何をさせないか(=人権)」の覚書です。中身は「国家は、社会を支えようとするみんなを守れ」という命令。 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34476

以上宮台真司の発言よりピックアップ。

近年の日本人は、そもそも「市民になる」という市民概念も、「公共性」の概念も解らずに社会にでるから、アホだらけ。
学歴やステイタスに関係なく劣化している。社会システムが完成しているため、社会に生きている実感がむしろもてなくなっているためだろうか。目標だった豊かさが桎梏と感じられ、過不足のない日常に倦怠を覚え、他人から吹き込まれた安易な「改革」や「夢」に簡単にのってしまうのだろう、内容には思考停止して。

それでなければ、改憲派のあの粗雑な改憲内容に頷くはずはないし、今享受している自由や平和を嫌悪することもないだろう。
ローマ帝国が、退屈しのぎにコロセウムや美食や遠征に明け暮れて愚民化したように、今の日本が重なってしまう。

貧しかったころの日本人は、もっと謙虚で平和を愛し、必死で思考したように思う。
自民党改憲案のような愚案は考えられないし、だれも見向きもしなかったはずだ。自分で自分の人権を貶め自由社会の根幹である人権を削除してしまおうと言うのだから。


九条は、自衛権を否定していない。国を攻められたら困る、という思考停止の不安には、国際法を学べというしかない。

そもそも憲法に国を守ることを要求することではない。軍隊を持つことを書けば事足りるものではないし、意味がない。
いざとなれば、いざとなればというのは領土侵攻されたらという場合だが、そのときは憲法もくそもない。一人ひとりが銃をとり、パルチザン闘士となる覚悟さえあれば足りるのだ。


NHKはじめマスコミの犯罪を書き留めておく。

集団的自衛権は、仲間内のケンカに肩入れして、相手と戦争すること。つまり同盟国アメリカと組んでやる戦争。

集団安全保障は、国連の手続きを踏んで、国選軍に参加、各国の合意のうえで治安安定を相互に担保する仕組み。
小生のいう「メタ国家」としての国連機能だ。
各国の恣意的な国益のための戦争を、国際社会で正当性を論議しつつ、武力がいいか民政貢献かを決める。
これにより、一国突出戦争をいかなる理由でも抑止していく。
たとえばイスラム国のような集団であれば、武力攻撃を反対する国はいない。周辺国は実際武力攻撃で自国を守っている。これは国連でもイスラム国の不当を共通認識としているためだ。

国連が利害抗争の場であることは事実だが、同時に戦争を抑止し武力以外の調停や民政支援を実績として積み上げてきたのも否定すべきでない。
一面だけをデフォルメしてはいけない。
日本は平和機能をもたせる希望の中心へ向けて日本は活動すべきだ。

集団的自衛権ではなく、
集団安全保障こそ日本の進む道だろう。
この区別もついていない安倍支持者は、集団的自衛権国際貢献をするいう。
戦争には戦争で鎮圧するという、このリアリズムを認めたとしても、大義名分のない戦争も、多数の合意もない戦争は私闘であって、歴史上評価されたことはない。
いまや白人先進国の力は落ちて、アジアの力が相対的に強くなっていくなかで、こうした国連を中心にした国際的合意ー「メタ国家」が重要になってることは間違いないのである。
それは世界の秩序原理としても、西欧民主主義の権威を維持することで、先進国の文化的ポジションを持続させていくことでも必要な方向なのだ。

国際貢献は、さまざまの方法があり、武力行使だけではない。よしんば武力行使であっても国際社会の合意のない戦争は、結局アメリカのようにひとつも成功せず、いたずらに他国を混乱に陥れ、戦費を負担して国力を低下していくのである。

ジョン・タワーが、日本国憲法は宝、これを保持して70年戦争をしなかった日本国民は世界でもっとも高い文明国をつくった。アメリカのようなミニチュア国家になることは止めた方がいい、というのは、そういうことだ。

ただいまだに日本知識人は、「小情況」を小ばかにして、モダニズムにいそしむため、こうした「メタ国家」論がいつも上滑りする。
もう一度、大衆の生活過程に降り立って思考する必要があるだろう。