■菅内閣閣僚人事-ノーサイドの舌の根が乾かぬまに「脱小沢」遂行

挙党体制を選挙中公言していた菅総理は、早くも誰の目にもそれが嘘だったとわかるような選挙論功行賞人事となっている。

幹事長人事でもたついた結果、やむなく岡田を説得した。仙石官房長官が岡田をあまり評価していないところから、仕方無しに当てはめたというのが正直な話のようだ。

総理はコロコロかえては信用問題となるなどともっともらしいことを言っていた三流評論家もマスコミも、閣僚が一年もたたないうちにコロコロかわることは問題にしない。

閣僚だって各省庁からすればコロコロ変わって困っているのではないのか?
事実岡田外相が急遽変わることで、直近の岡田が言いだしっぺで開催する非核保有国会議?とかの準備が新外相では間に合わず、言いだしっぺがいなくなることで外務省は頭を抱えていると報じられている。

全くいい加減なもので、デマゴーグやマスコミに洗脳された菅支持派国民は自分たちの矛盾と無責任にどう答えるのだろうか?

こうしてクリーンと市民をうりものにして、平然と言葉に責任を持たない人事やマニフェスト撤回をする菅と仙石は、結局政権を取るプロセスの中に自民党政治を克服する計画を持ちえていなかったことが窺える。自民党の模倣ばかりだ。

その点、小沢は自民党の中枢に居ただけに、自民党から引き継いだものと克服すべきものがハッキリしているだけ、いいにしろ悪いにしろ納得してみていられる。

菅と仙石の政権運営のイメージは、見慣れた風景である自民党手法以外は想像できていないようだ。

さて岡田幹事長の話であるが、新進党解党を進めた小沢に対して、解党は支持した国民を裏切るものであると正論を吐いて以後対立する。

確かにその局面だけでいえば岡田は正論だと思う。原理主場者と言われるゆえんである。
しかしこういうタイプは企業内にもいて、誰かの構想に乗ったのだが、その構想を再び更新しなければならなくなったような場合、ついていけなくてリーダーを逆恨みするということはしばしばあることだ。

早い話が、自分の構想を持たず他人の構想に受け身的に対処することしかできず、政治の磁場を主体的につくれず、結局被害者意識だけが残るのだ。

これは小沢との比較でいえば、小沢の構想力と磁場創出力が勝っていたということでしかないのであって、小沢を逆恨みすることではないことである。
情況の目まぐるしい進展に対処できない、政治家としては無能であるといっているすぎないのである。

もちろん関係者でもないわたしには、実際の両人に何がどうあったのかは知る由もない。しかし、今の政治の磁場を自分では作りえず、仲間もいない姿を見ている限り岡田はポナパリズムでしか生き残れない。つまり自分の政治はできないことだけは明らかなのだ。

今後の政局にあってとても党内野党と議会野党を相手に切り盛りできるとはおもえないのである。

そんな感想も持ちながら今朝の読売新聞社説を読むと、さっそく菅内閣が予算案を通過させようと思ったら自民党との連立以外はない、と従来通りのナベツネ論を書いている。

ますます自民党化する菅内閣は、今後も政権だけへの執着で小沢派を振り切ろうとすると、党外勢力と組んで押さえ込むしか無くなるのも確かだ。

幸いというか、かつて新党さきがけの竹村正義が、小沢新進党を出し抜いて自民党と組んみ、「自社さ」村山政権を擁立したのだが、竹村とともに動いた菅総理はそのときのみごとな裏切り手法をよく修得しているはずだ。

このとき自民党で竹村と意を通じて図ったのは加藤紘一であり、サポートしたのが亀井静香と野中公務といわれている。

菅総理の「小沢なんか気の小さいやつに過ぎない」と腐す自信はこのときの成功体験によるものと思われる。
そして岡田と自民党石原は過去の国会活動の中で交遊があり親しく話せる間柄にあるとのことだ。
そして菅と加藤が気脈を通じ合う関係にあると聞くおだやかではない。

読売の社説を読んで、今度こそ本当に民自連立はありうるかもしれないとゾッとしたのは、以上のような役者が揃ったことと、なによりも自民党、財務官僚、財界、マスコミが揃って消費税率値上げに熱心なことである。
読売は既に世論調査で料率値上げ派が反対派を上回ったと洗脳キャンペーンに入っている。

官房機密費をばら撒いて消費税料率値上げキャンペーンやスキャンダル暴きの謀略で政敵をつぶしながら、呉越同舟のまま消費税を相互に担保する連立はひょっとしてありうるのかもしれない。

そのとき初めて政界再編はありうるのではないか。

同時にそのときは官僚内閣から国民政治主導内閣へという戦後政治の国民的改革は露と消え去るのである。