民主党代表選−「世論」をめぐる寺田学首相補佐官のポピュラリズム

読売新聞8月30日朝刊の記事を読み、菅派の性質がよく理解できて興味深い。

残念ながらくだらない偏向したTV政治討論番組をほとんど観ないので、読売の記事だけで判断する。だからといって、新聞を信用しているわけではないのだ。活字で残る分だけ嘘と世論誘導の証拠が事後検証できるというにすぎない。

かといって新聞を購読しているわけではなく、喫茶店などで拾い読みするだけである。
他はネットから当事者に近いところから直接情報を取るようにしている。

何をいいたかというと、実在の生活者たるわたしの認識と新聞やTVで報じる「世論」の認識がいつもかなり違っていて、周囲の知人やOLに聞いても簡単に受け答えする分には世論調査のデータに似た回答だか、少し突っ込んだ話になるとずいぶん違いがハッキリしてくる。或いは条件や前提がついてくるものである。

だからメディアの業界に居て、このメディアの世論調査データを参考にはしてもほとんど信用しなくなっている。しかし現実のメディアは、近年益々激しく伝家の宝刀のごとく政治の節目でちらつかせてくれる。大きなお世話というものだ。

ここにも客観的な取材と報道の劣化を、「世論」という虚構で代替えして部数を伸ばそうとする惨状をみる。
わたしたちは、「みんな」がどう思っているかなどどうでもいいのだ。当該の事象や人物について、わたしたちの無意識の日常意識の陥穽や誤認を啓蒙するような鋭い事実の発掘や記者の指摘が欲しいのだ。

いままでもその調査方法と捏造に近い手法への批判は、秀逸な論評がでているので今さらわたしが述べ立てないが、新聞社も良心があるならせめて質問と回答選択肢を同時に全て明らかにすべきである。

実体験からしても、質問に適当な選択肢がなく、いつも「その他」が多くなる。まして政治というセンシティブな問題に単純に答えようもなく、いつも質問と回答選択肢に苛立ってしまう。
或いは質問設定の裏の意図が透けてみえてしまう。

ハイエクではないが、この複雑化しさまざまな権力(集団幻想)が絡み合う時代に、そんな単純に三つや四つぐらいの回答選択肢で答えられるわけがないし、答えて出てきた数値はほとんど生活者の溜め息のようなホンネは捨象され、抽象的な「世論」という新聞社の意図のもとに回収されているといっいいいだろう。

特に、官房機密費が長年新聞テレビ等メデイア関係者にばら撒かれている事実が常識になったご時勢に、こうした客観性を装ったデータは益々メディアのいかがわしさを深めるだけではないか。

わずか6月、7月の二ヶ月で、仙石官房長官は2億円もの機密費を引き出していると報じられている。
自民党流のメディアを手なずける秘密技はそのまま引き継いだだろうから、この代表選にもふるに金をばら撒き、菅氏に有利なデータを「味付け」するぐらいの効き目は出ているとみるのが常識だろう。

メディアは仙石官房長官に過去の受け取り者リストを握られた限り、菅氏有利情報は黙っていても「味付け」せざるを得ないところに追い込まれただろう。
ここには民主党政権に期待した官房機密費の公開はついに果たされず、なまじリベラルでもないのにリベラルを装うから、幻想を振りまく分だけ自民党以上に政治不信をつのらせ不透明さを増している。

前置きが長くなったが、昨日(29日・日曜日)民主党山岡賢次(党副代表氏・小沢派)と寺田氏(菅内閣主席補佐官・菅派)のTV対論があったようだ。観ていない。読売の記事の断片から。

山岡氏は、「政治と金、国民が話題にするのは当然だ。ただ政治家はエンターティナーではない。国を運営するのが仕事で、(結果は)選挙で判断してして頂ければいい」と述べた。

これに対して「寺田氏は、『国民に失礼だ。世論と永田町がリンクするのが民主党だ』とかみついた。」と報じている。

この寺田氏の発言は、旧民主党ないし反小沢派の特徴をよく言い表していて興味深い。

まず、①菅派がTV出演に寺田氏を起用したのは、当選3回でキャリアがない分見栄えがフレッシュなところが売り込めるということだと解説されている。

寺田氏の②「世論」と永田町が結びつくのが民主党だと一瞬聴けば耳障りがいい発言は、言外に、民主党は「世論」を大事にする党だと暗示しているのである。

①②ともに、菅派の面目躍如だ。
見た目、印象操作、パフォーマンス、国民の意向を汲み取るポーズ、これらは反小沢派の得意とするところで、高度大衆社会では理念訴求より遥かに手っ取り早い支持率獲得につながることを知っている。
ある面でナチスドイツのゲッペルスなどの神経の使い方によく似ている。

そして読売の記事の締めくくり方に、暗黙の寺田氏が正論を吐いているという印象操作が見て取れる。「かみついた」という断定で終止させることで、「かみついた」ことが当然である、という無言の印象を植え付ける。「かみついた」は記者の極めて主観的な情景描写なのである。

見栄えや事実描写に付随させて主観的描写で視聴者や読者に刷り込む方法が、実は定式化されたマスメディアと権力(支配的イデオロギー)の日常的共犯関係をつくっている。

民主党反小沢派は、本来なら小沢一郎の理不尽な国家権力からの追及とマスメディアとB層のバッシングに、敢然と「推定無罪」を主張し、党友の人権擁護に回らなければいけないはずなのに、支持率を下げる元凶のごとくにみなして排除しようとする。

彼らの体質から読み取れるものは、日頃人権擁護だとか、死刑制度廃止だとか、命が重いなどもっともらしいことを言っていても、これでは国民の人権や生活権などいざとなればどうでもいいことだというホンネを晒しているものだ。

こういう基本的理念の欠落ないしは外在性が菅派にはつきまとっており、アカデミシャンや三流評論家と同様、唱える理念は単純な群れ成すための記号であって、自分の信念として身体化されていない。
だから、B層と同様、いざ自分の生活圏を脅かす問題が起こると、理念を捨ててあっという間に「嫌いなやつはやっつけろ」という大衆ファシズムに陥るのである。

一戸建の邸宅で、大きな冷蔵庫に食料を詰め込んで腹いっぱい食べながら、TVに映る餓死する子供の人権を叫びながら、いざ自分の家庭で養子として引き取れとなると途端に知らぬふりをする「リベラルおばさん」と同類でしかないのである。似非市民主義者?似非リベラリズム

政権担当以後、これに似た事実にきづく。
民主党政権への期待の最重要項目は、官僚内閣制から政治主導であった。

菅氏は国家戦略相として真っ先に実績を見せなければいけないはずだった。国家戦略室こそがわれわれもアイデアの斬新さに驚き期待したものだ。
しかし、菅氏はほとんど回転させずノラリクラリ放擲した。

このとき小沢は、一気に官僚への陳情を禁止し、地方民主党から幹事長室へ一本化し政治主導を見せつけた。また事務次官のリークを禁止して、政治主導阻害要因を潰した。

ものの見事に狙いは当たった。官僚もメディアも抗議声明をだすくらい狼狽し、次官からのリークによる官僚=新聞TVのもたれあいが遮断されたことに悲鳴を上げた。
制度設計に問題があれば修正すればいいことで、この素早い実行力が小沢自身の政治了解である。
これは国民も大いに納得したものだ。

この比較に両派の体質の特徴が集約されている。

寺田氏の言う「世論」は、官房機密費でメデイアを手なずけ、メディアに誘導された「世論」に菅派有利を紙面化してさらに誘導し、その誘導され作られた「世論」の多数派が正当性を持ち、その虚構の多数派がイコール「国民」(投票者)だとすり替えているにすぎない。
ここには「世論」イコール「国民」だという詐術がなされている。「世論」は幾重にも手が入り作られた虚構である。一方「国民」(投票者)は実在の生身の生活者である。同じものではない。

その意味では、確かに反小沢派は「世論」と永田町を結んでいる。
政権交替を期待した昨年の得票、「民主党支持者」の実在の声はあっさり忘れて、あっさりと官房機密費でつくりあげた「世論」を盾に公約を放り出している。
現在の菅内閣の官僚依存は、「民主党」支持の実在の声を無視し、虚構の「世論」と蜜月になることによって既得権益層とも共犯者になっている。マニフェストからの後退は、どれほど「世論」の数値が容認しても、それを信じ明確な意思をもって民主党を支持した実在の生身の国民がひとりでもいる限り、許されることではないだろう。

かかる循環的構造から、寺田氏の言う「世論」を錦の御旗にすればするほど、民主党は近代日本の病巣である官僚問題に向き合わず、自民党化していくのである。

もちろん小沢総理でそれが十分できるのかは未知数である。
しかし、さんざマスメディアは小沢が自分で総裁に立たないことを批判してきたのだから、小沢自らが起ったことぐらいは評価すべきではないか。

マスメディアも「世論」も、ともに課題への一貫性をもたない。
また結果への責任ももたない巨大なリバイアサンである。

そういう最大の欠陥ががよく解っていて、「政治家はエンターティナーではない。国を運営するのが仕事で、(結果は)選挙で判断して頂ければいい。」という山岡氏の発言は、「世論」という無責任性にもたれる寺岡氏より遥かにまともに感じるのはわたしだけだろうか。

「世論」を先験的に設定する寺岡氏はまぎれもない菅派のエッセンス、ポピュラリズムを代表しているように思う。