■小沢一郎とメディア20年戦争

先ごろMIXIで常連の若い人から、小沢は何故バッシングをうけるのですか?という質問があった。
簡単に2、3理由をあげたように記憶している。

先週の「週間ポスト(9月24日号)」は代表選の総括をしているが、いかにマスコミと霞ヶ関の菅バックアップと方や小沢叩きが激しかったかを詳報している。

「週間ポスト」は他のメディアと違って割合客観報道を心がける誌である。飛ばし記事も少ない。

余談だが実はポストの先代編集長はわたしの大学の学生寮時代の先輩なのだ。
その先輩編集長時代かなりシッカリした週刊誌になった。

で、話は小沢とマスコミの20年戦争を簡潔にポストがかいているので要約して、現代史にうとい若者に情報を提供する。


自民党派閥政治全盛の頃、まあ80年代までだが、政治部の記者は担当派閥ごとに分かれて、同じ社でもスクープ抜き合戦をして出世競争を繰り広げていた。

派閥に食い込みオフレコ懇談に参加できるように親密になることが目的化されて、その中から機密情報にありつく仕組みが出来上がっていた。
親密になる方法は多くが自社が何を追っていて何処にスキャンダルがあるのか、派閥の欲しがる敵側の情報を内密に提供することが多かった。
そこに恩を売り買いするもたれあいの構造が出来上がった。

現在マスコミ各社は、敵対派閥や野党取材の詳細を日々メモとして官房にあげている。だから官房長官は全ての情報が集約でき、それをもとに情報操作と敵への謀略を仕掛けることができるのである。

霞ヶ関でも各省庁の記者クラブ制度によって、役所への情報アクセスを独占的に確保した。

TV局は政府の電波割り当てによって、情報発信手段を独占してきた。


従って、記者クラブ制度は、政官への情報アクセス権を独占し、かれらとの癒着で情報商品と記者の出世を獲得することができてきたのである。

これは明らかにマスコミの談合である。建設業界の談合などを正義づらして報道できた義理ではないのだ。

官房機密費のマスコミへのバラマキはこうした構造的汚職ともいえるのだ。

昨年政権交代の折、鳩山政権は官僚の局長・事務次官以上の記者会見を禁止して、リークを断った。
これに新聞各社、新聞労組は激しい抗議をしたのは記憶に新しい。

官僚側の利害が損なわれると見られた場合、政治主導の政策を潰すための情報を馴染みの記者にリークして、政策潰しが頻繁に行なわれることを断つためであった。

紙面記事の大半は、そうした官僚のリークで成り立ってきたため、記者も損害をこうむるため、官報連合の猛烈な民主党潰しがキャンペーンされたのだ。

それをみて政権延命だけを考えた菅と仙石は、一切マスコミと官僚に対するリーダーシップを放棄して迎合した(本人は官僚を手なずけて使っているつもりだろうが)。小沢の政治主導政策を潰したわけだ。

そして日本既得権益層独特の慣行として今に至るまで国民の洗脳と誘導を司っているのである。
以下ポストからの引用。

そのなかで、80年代終わりに自民党内で頭角を現した小沢氏は、政治改革をめぐる党内抗争の中で、「マスコミほど既得権を得ているところはない」「記者クラブというギルド組合を解体しなければ、日本に本当の言論の自由は成り立たない」と、メディアのあり方そのものを批判して改革の大きな標的にした。

実際に小沢氏は細川内閣、新進党と自らの記者会見を外国メディアやフリーランスの記者に解放し、その原則は現在の民主党にも引き継がれた。

新聞・TVにとっては小沢氏は既得権益を奪う敵であった。

以後メディアは、政策報道との政界再編ではなく、「小沢が好きか嫌いか」の軸設定で、小沢のスキャンダル掘り起こしを霞ヶ関と共謀して仕掛けては不毛な離合集散報道に堕落してきたのである。

立正大講師・元新聞協会研究所の桂敬一氏は次のように問題を指摘する。

「小沢憎しという教義ありきのメディアは、政策の中身ではなく、脱小沢なら評価する、逆は評価しないという単視眼的判断になる。
しかも、その根拠を世論調査で裏付けようとする。

聴くべき少数意見があれば、その意味を考える姿勢がメディアには必要だが、その姿勢はない。

危険なのは国民がそれに慣れてしまうと、世論調査で聞かれる側も、<安心したい安心したい>という心理が働き、どちらの意見が多そうかで自分の意見を決めることだ。

この繰り返しが続けば、国民も自分の責任でモノを考える能力が劣化していく」。

しかし、こうした状況を許してきた小沢の力不足とコミュニケーション能力、また政治家としての情報発信力の欠陥が、メディアに敗北し続けたとも言えるわけで、ここを補うブレーンが育たないことは小沢の政治家としての限界かもしれない。

現代の大衆社会状況では、どのような表象として政治家のイメージを構成するかは、残念ながら消極的な意味ではあるが最低限必要なことなのだ。

小沢の魅力はこうした小手先を弄しない朴訥さが、会った人間をたちまち魅了して、多くの「小沢信者」をつくってきたのであるが、そうした小沢流の美学が通じない大量の日本人が蔓延した時代には、欠点としてしか作用しなくなっていることも事実である。

この戦後の政官の情報既得権益解体をめざし、初めて記者クラブをオープンにしたのは、小沢一郎である。
このことは現在進行形の戦争であるが、小沢一郎の名は歴史上記憶に価することは間違いないのである。